ユダヤ人と諸国民の一致(ローマ15:7-13)





3節で学習したとおりキリストはご自分の喜びを求めず、むしろ愛をもってわたしたち一人一人をご自身のもとに迎え入れてくださいました。であればわたしたちも会衆において互いを尊重し、認め合うべきです。7-13節はそのことをわたしたちに教えています。そしてこの訓戒をもって12章から続いていた実践の勧めの部分が終わります。




15:7 それゆえ,神の栄光となることを目ざしつつ,キリストがわたしたちを迎え入れてくださったように,あなた方も互いを迎え入れなさい。

パウロはクリスチャンが互いを受け入れ合うべきことを教えます。彼がユダヤ人と諸国民の間の一致のことを念頭に置いて話していることは明らかですが、言うまでもなくこれはそれ以外のクリスチャンの兄弟関係においても実践すべきことです。

どんな場合でもキリスト・イエスがわたしたちの規範です。キリストでさえ罪深いわたしたちを迎え入れてくださったのですから、わたしたちが互いを快く迎え入れるのは当たり前です。

「神の栄光となることを目ざす」のであれば、自分の正しさだけを主張して他者を退けるような行為を避けるべきです。紛争は神の名をおとしめますが、平和は神の栄光となります。




15:8-9 わたしは言いますが,キリストはまさに,神の真実さのために,割礼を受けた者たちの奉仕者となり,こうして,神が彼らの父祖になさった約束の確かさを証拠だて,諸国民がその憐れみのゆえに神の栄光をたたえるようにされたからです。

キリスト・イエスは割礼のあるユダヤ人と割礼のない諸国民を両者ともお救いになります。

ただしイスラエル人と諸国民には救いの開始時期において差がありました。キリストは最初に「割礼を受けた者たちの奉仕者」となり、神の選びの民であるイスラエルを救う使命を帯びて地に来られました。(マタイ15:21-28) それは救いに関してイスラエルの父祖と交わされた神の約束が永遠に真実であることを示すためでした。




15:8-9 わたしは言いますが,キリストはまさに,神の真実さのために,割礼を受けた者たちの奉仕者となり,こうして,神が彼らの父祖になさった約束の確かさを証拠だて,諸国民がその憐れみのゆえに神の栄光をたたえるようにされたからです。

キリストは次に諸国民を救い始められます。諸国民は救いの約束をもともと与えられていたわけではなかったため、「約束」ではなく「憐れみ」を根拠にして救われることとなりました。イスラエル人は約束を堅く守る神の真実さによって救いに迎え入れられ、諸国民は約束がないにもかかわらず特別な恩恵によって迎え入れられました。ゆえに両者とも神の栄光をたたえずにはいられません。

こうしてクリスチャンの模範であるキリストは神の栄光を表すことを目的としてわたしたちを迎え入れてくださったのですから、わたしたちはユダヤ人か諸国民かなどの区別で争うべきではありません。




15:9 「それゆえにわたしは諸国民の中であなたを公に認め,あなたのみ名に向かって調べを奏でる」と書かれているとおりです。

パウロは9-12節でヘブライ語聖書を四箇所引用し、キリストがわたしたちを迎え入れてくださったこと、とりわけ諸国民を受け入れてくださったことを確証しています。




一つ目はサムエル第二2250節(または詩編1849節)です。これはダビデが異国の敵を征服した後にその地でエホバにささげた賛歌です。このダビデの姿を完全に成就したのはイエス・キリストです。そう見なすことによりこの詩をキリストが諸国民を霊的に征服してご自分のもとに招き入れたことの預言と解釈できます。




15:10 またこう言っています。「諸国民よ,神の民と共に喜べ」。

二つ目は申命記3243節です。「神の民」はイスラエルを指します。諸国民も憐れみによって救われるゆえに神の民と並んで歓呼の声を上げることとなります。




15:11 またこうあります。「諸国民すべてよ,エホバを賛美せよ。もろもろの民はみな神を賛美せよ」。

三つ目は詩編1171節です。ユダヤ人のみならず諸国民も神を賛美するようになることはヘブライ語聖書で予告されていました。諸国民は賛美の心に満たされるほどに神の過分の親切を受けるのです。




15:12 そしてまたイザヤは言います,「エッサイの根があり,諸国民を支配するために起こる者がいる。諸国民は彼に希望を置くであろう」。

四つ目はイザヤ1110節です。エッサイはダビデの父です。ダビデの家系を通して生まれた子孫、つまり「エッサイの根」とはメシアであるイエスのことです。イザヤが言うとおりメシアはイスラエルのみならず諸国民をも支配し、その結果諸国民もメシアに望みをかけるようになります。




15:13 あなた方が信じることによって,希望を与えてくださる神が,あなた方をあらゆる喜びと平和で満たしてくださり,こうしてあなた方が聖霊の力をもって希望に満ちあふれますように。

諸国民は本来神もキリストも希望も持たない者たちでした。(エフェソス2:11-12) その彼らが「希望を与えてくださる神」に信仰を抱くことになるというのは類例のない奇跡でした。

13節でパウロが祈っているのは、諸国民も含めたすべてのクリスチャンが「喜び」と「平和」と「希望」に満ちあふれることです。苦難の中での喜びと平和な状態は、クリスチャン各自がキリストを信じ、キリストのように他者の弱さや苦しみを担い合うことによって生まれます。そして希望は聖霊の力によって豊かに増し加えられます。

こうしてパウロはユダヤ人と諸国民の関係、さらには彼らすべてと神との関係を述べ、12章から続いていた実践の部分を結びます。