パウロの祈り(ローマ15:30-33)





30-33節にはパウロからローマのクリスチャンたちへの願いがつづられています。




15:30 さて,兄弟たち,わたしたちの主イエス・キリストにより,また霊の愛によってあなた方に勧めます。

パウロは自分のために祈ってほしいとローマのクリスチャンに願います。それも「主イエス・キリストにより」懇願しています。仲間のために祈るほどの大きな信仰を与えてくださるのは主イエス・キリストだからです。

加えて「霊の愛によって」も懇願しています。聖霊がわたしたちに持たせてくださる愛は真実の愛であり、離れた場所にいるクリスチャンにも深い関心を抱けるほどの愛だからです。




15:30 わたしのため,神への祈りにわたしと共に励んでください。

パウロは単にともに祈ることではなく「神への祈りにわたしと共に励む」ことを勧めています。「共に励む」と訳されたギリシャ語sunagónizomaiは「一緒に奮闘する」行為を表す語です。特に困難な内容のことを神に祈る場合、その祈りは一種の闘いであり、努力と熱心さと仲間の力が必要となります。

他者の代わりに祈ること、またその人のために一緒に祈ることはクリスチャンの間で必要なことです。聖書に明記されている限りで自分のために祈ることを信者たちに求めたのはパウロだけですが、おそらく他の使徒やクリスチャンたちも同様のことをしていたに違いありません。

興味深いことにパウロは、自分の霊的な子供にあたる会衆や個人に対しては、自分のために祈ることを依頼していません。むしろ彼らがすでに自分のために祈ってくれているということを前提にして話を進めています。コリント会衆やフィリピ会衆などがその例です。(コリント第二1:11、フィリピ1:19、フィレモン1:21-22) 一方信仰上の同士の関係に立つと見なしていた会衆に対しては、自分のために祈るよう依頼しています。いまだ訪れたことのない会衆に対してもそうです。エフェソス会衆やコロサイ会衆、テサロニケ会衆などがその例です。(エフェソス6:19-20、コロサイ4:3-4、テサロニケ第一5:25、テサロニケ第二3:1-2

以上の事実は、パウロが単なる決まり文句のように「わたしのために祈ってほしい」と述べていたわけではないことを物語っています。互いのために祈るときや祈ってもらう時は真心をもってそうしなければならないことを学べるのではないでしょうか。




15:31-32 わたしがユダヤにいる不信者たちから救い出され,エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに受け入れられるものとなり,わたしが神のご意志のもとに喜びを抱いてあなた方のところに行くとき,共にさわやかな気持ちを抱けるようになるためです。

パウロがローマのクリスチャンたちに祈りの助けを求めたのには理由がありました。二つの理由ゆえに事態が容易ではなかったのです。




一つはエルサレムにいる不信仰なユダヤ人たちの反対に遭遇する危険があったという理由です。預言者やキリストを迫害したユダヤ人たちは、懲りることなく使徒パウロをも迫害しようとしていたのです。パウロはその危険から守られることを切実に願っていました。




15:31-32 わたしがユダヤにいる不信者たちから救い出され,エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに受け入れられるものとなり,わたしが神のご意志のもとに喜びを抱いてあなた方のところに行くとき,共にさわやかな気持ちを抱けるようになるためです。

もう一つはエルサレム会衆から歓迎されないことも予期しなければならなかったという理由です。ユダヤ人のクリスチャンの中にはパウロに好印象を抱かない人たちもいました。彼らに拒まれてせっかくの奉仕が台無しになりはしないかとパウロは心配していたのでしょう。




15:31-32 わたしがユダヤにいる不信者たちから救い出され,エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに受け入れられるものとなり,わたしが神のご意志のもとに喜びを抱いてあなた方のところに行くとき,共にさわやかな気持ちを抱けるようになるためです。

エルサレム会衆内外にこのような困難な事情があったためパウロは一緒に祈って奮闘してほしいと懇願したのです。そしてエルサレムの貧しい兄弟たちへの奉仕が成功した暁には、歓喜の心でローマに到着し、兄弟たちと憩いの時を過ごしたいとの思いを表明しています。




15:33 平和を与えてくださる神があなた方すべてと共におられますように。アーメン。

パウロは不穏な事態を予想しつつもその予想を超えた平安をもたらしうる神に目を向け、その方がローマ会衆とともにおられることを祈りました。