パウロの宣教②(ローマ15:17-21)





15:17 それゆえわたしには,神に関する事になると,キリスト・イエスにあって歓喜する理由があります。

キリストの公僕として働くパウロは、自分自身に関して誇れるところがないとしても、神への奉仕においては誇りつつ歓喜できることが多分にあると言っています。「歓喜する」という語のもとのギリシャ語が「誇る」を意味することは52節の注解で述べたとおりです。神に関する誇りは正しい誇りです。肉的な誇りではないため少しもやましくありません。

さらにパウロはこの誇りが「キリスト・イエスにあって」のものだと述べ、その意味を続く18節で明らかにします。




15:18 諸国民を従順にならせるためにキリストがわたしを通して,すなわち,わたしの言葉と行ないにより,しるしと異兆との力,また聖霊の力をもって行なわれた事柄についてでなければ,わたしはあえて一言も語らないからです。

パウロの宣教はすべてキリストの働きに依存していました。キリストの業なくしては何もすることができないと認めていたパウロは、「ただキリストが自分を通して諸国民に良いたよりを語ってくださっただけなのだ」と言います。




15:18 諸国民を従順にならせるためにキリストがわたしを通して,すなわち,わたしの言葉と行ないにより,しるしと異兆との力,また聖霊の力をもって行なわれた事柄についてでなければ,わたしはあえて一言も語らないからです。

パウロの「言葉と行ない」の背後にあったのは、キリストによる「しるしと異兆との力」、そしてキリストから送り出される「聖霊の力」でした。だからこそパウロはキリスト・イエスにあってのみ誇る理由があると述べたのです。

「しるし」と「異兆」と訳されているのはそれぞれギリシャ語sémeionterasです。前者は「目に見えない大きな力の表れとしての奇跡」、後者は「自然の法則を超えた奇跡」を表す語です。




15:19 そのためわたしは,エルサレムから,そして巡回しながらイルリコに至るまで,キリストについての良いたよりを徹底的に宣べ伝えました。

キリストから力を受けたパウロの活躍には目を見張るものがありました。パウロはここで自分が宣教を行った地域を明確に述べ、いかに広範囲にわたって良いたよりを伝えたかを示しています。




パウロは主イエス・キリストに遣わされてエルサレムから諸国民への伝道を開始しました。そして各地を巡りながらイルリコ州にまで行きました。イルリコはマケドニア州の北方、フィリピやテサロニケなどの都市の西北に位置する州です。パウロが実際にその土地に入って宣教を行ったのか、あるいはその地の手前まで到達しただけなのかは不明です。クリスチャン・ギリシャ語聖書中に彼がイルリコ州に足を踏み入れた記事がないからです。彼は「イルリコに至るまで」と言うことで、自分の宣教範囲を大まかに示したものと思われます。並外れた彼の働きが聖霊の力によるものであったことは疑う余地がありません。




15:20 こうして,実に,キリストの名がすでに唱えられている所では良いたよりを宣明しないことを自分の目標としたのです。

パウロが未開拓の諸地域で宣教をしたのは、それがキリストの意志であったからだけでなく、それを行いたいという熱意が彼自身にあったからでもありました。「目標とする」と訳されたギリシャ語philotimeomaiのもとの意味は「それを行うことを栄誉と思う」で、そこから「成功を目指して努力する」というような意味が生じました。

他の人がすでに手を付けている土地で伝道するのは比較的容易なことです。困難は未開拓の土地で伝道する際に直面するものですが、あえてそのような伝道に挑戦することこそ本当の開拓者精神といえるでしょう。




15:20 それは,ほかの人の土台の上に建てることがないようにするためです。

困難があるにもかかわらずパウロは他の使徒たちが土台を築いた地で楽に伝道をすることではなく、キリストの名が知られていない遠くの土地で良いたよりを伝えることを選びました。他の使徒の苦労を踏み台にして功績だけを自分のものとしようなどとは考えられなかったのです。

実際パウロや彼と同様の熱心さを抱く初期の宣教者たちのおかげてキリスト教が世界に広まったことは感謝すべきことです。それでもパウロのような働きをする者は、自分のことを誇るのではなく、聖霊の力ゆえに務めを遂行できることをキリストにあって誇るべきです。




15:21 「彼について何も告げ知らされていなかった者たちが見,聞いたことのなかった者たちが理解するであろう」と書かれているとおりです。

パウロはイザヤ5215節の言葉を意識していました。この聖句はメシアに関する預言で、メシアに関して知らなかったことを王たちや諸国民が知るようになると述べています。キリストについて知られていない地域で良いたよりを伝えること。そしてその地域の人々がキリストを受け入れて信者となること。パウロにとってはこれこそがイザヤの預言の成就でした。