同族へのパウロの愛②(ローマ9:4-5)
9:4 彼らはつまりイスラエル人で,養子縁組と栄光といろいろな契約と律法の授与と神聖な奉仕と数々の約束とは彼らに属しています。
9:4 彼らはつまりイスラエル人で,養子縁組と栄光といろいろな契約と律法の授与と神聖な奉仕と数々の約束とは彼らに属しています。
まず「養子縁組」です。イスラエルは国民として神の子と呼ばれました。(出エジプト記4:22-23、申命記14:1-2、ホセア11:1) もちろん霊によって神の子とされたクリスチャンが持つような深い神との関係を持っていたわけではありませんが、それを予表するような関係をいわゆる養子縁組によって得ていました。
9:4 彼らはつまりイスラエル人で,養子縁組と栄光といろいろな契約と律法の授与と神聖な奉仕と数々の約束とは彼らに属しています。
次に「栄光」です。エホバは事あるごとにご自分の栄光をイスラエルに示してこられました。(出エジプト記24:16-18、出エジプト記29:43-46)
9:4 彼らはつまりイスラエル人で,養子縁組と栄光といろいろな契約と律法の授与と神聖な奉仕と数々の約束とは彼らに属しています。
続いて「いろいろな契約」です。エホバはアブラハムをはじめとするイスラエルの父祖たちと数々の契約を結ばれました。
9:4 彼らはつまりイスラエル人で,養子縁組と栄光といろいろな契約と律法の授与と神聖な奉仕と数々の約束とは彼らに属しています。
それから「律法の授与」です。神はシナイ山でイスラエルの民に比類のない律法を授けられました。
9:4 彼らはつまりイスラエル人で,養子縁組と栄光といろいろな契約と律法の授与と神聖な奉仕と数々の約束とは彼らに属しています。
さらに「神聖な奉仕」です。レビ記には神を崇拝するための様々な手順が記されていますが、これはイスラエルが幕屋や神殿で神に神聖な奉仕をささげる助けとなりました。
9:4 彼らはつまりイスラエル人で,養子縁組と栄光といろいろな契約と律法の授与と神聖な奉仕と数々の約束とは彼らに属しています。
他にも「数々の約束」があります。神はイスラエルに対して救いと祝福を繰り返し約束されました。とりわけメシアを遣わすとの約束はユダヤ人にとって大きな関心事でした。
9:5 父祖たちは彼らに属し,キリストも,肉によれば,彼らから出たのです。
そして「父祖たち」です。イスラエル人が誇りとする族長たち、すなわちアブラハムやイサクやヤコブはみなイスラエルの先祖です。
9:5 父祖たちは彼らに属し,キリストも,肉によれば,彼らから出たのです。
最後に「キリスト」です。神の子であるイエス・キリストも肉によればダビデの子孫としてイスラエルに生まれた方でした。もちろんイエスはイスラエルだけを救うために地に来られたわけではありませんが、それでもこの方がイスラエルの地で誕生されたことはイスラエル人にとって大いなる光栄でした。
9:5 すべてのものの上におられる神が永久にほめたたえられますように。アーメン。
5節の訳し方は一般的に二通りあります。
一つ目は「すべてのものの上におられる神が永久にほめたたえられるように」で、新世界訳はこの訳し方に準じています。二つ目は「彼がすべてのものの上におられる神として永久にほめたたえられるように」で、これは他の複数の翻訳聖書に見られる訳し方です。
一つ目の訳によれば、5節を「イスラエルの数々の特権を列挙したパウロが感極まって父なる神に賛美を発した」というように解釈することになります。この訳の利点は「聖書において神という語は一般的に父なる神を指して用いられる」という原則と調和する点です。欠点は前後の文とのつながりが見いだせない(文脈上の問題)点、そしてギリシャ語原文の構文からして訳し方に無理がある(文法上の問題)点です。
二つ目の訳によれば、5節を「イスラエルの特権としてキリストを挙げるに至り、ついにキリストを神たる方として賛美するに及んだ」と解釈することになります。この訳の利点は直前の文とのつながりが明瞭である点、そしてギリシャ語原文に対して自然な翻訳である点です。欠点はキリストを神と呼ぶことが異例であるという(教理上の問題)点です。
一つ目の訳を支持する場合は、その欠点である文脈上の問題と文法上の問題を解決しなければなりません。文脈上の問題については、5節を文脈から独立した賛美文と考えることで解決できます。ところが文法上の問題は解決しがたいところです。特に文法上の問題について指摘すると、一つ目の訳し方がなされる場合はコリント第二1章3節やエフェソス1章3節、ペテロ第一1章3節に見られる構文の形式がとられるはずなのに、ローマ9章5節では違う構文となっているという事実があります。
一つ目の訳を支持する場合は、その欠点である文脈上の問題と文法上の問題を解決しなければなりません。文脈上の問題については、5節を文脈から独立した賛美文と考えることで解決できます。ところが文法上の問題は解決しがたいところです。特に文法上の問題について指摘すると、一つ目の訳し方がなされる場合はコリント第二1章3節やエフェソス1章3節、ペテロ第一1章3節に見られる構文の形式がとられるはずなのに、ローマ9章5節では違う構文となっているという事実があります。
二つ目の訳を支持する場合は、その欠点である教理上の問題を解決しなければなりません。これについては、キリストを神と呼ぶ箇所が聖書中にないわけではないと考えることで解決することができます。たとえばヨハネ1章18節やヨハネ20章28-29節では確かにイエスが直接「神」と述べられています。また仮にキリストを神と呼んでいるとしても、それは「イエス・キリストが父なる神ご自身だ」といっているわけではなく、純粋にキリストの完全な神性を表現しているにすぎないと理解できます。
キリストが「すべてのものの上におられる」という表現も、「御父を除いたすべてのものの上におられる」という意味に解釈することは可能です。そのような例ならコリント第一15章24-28節にあります。
そういうわけで5節については、「彼がすべてのものの上におられる神として永久にほめたたえられるように」という二つ目の訳し方を採用するほうが有利です。つまり「イスラエルはキリストという神たる方を輩出した民であるという点で類例のない特権を得ていた」ということです。
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