イスラエルの不信仰(ローマ9:27-33)
27-33節ではイスラエルの不信仰について学びます。27-29節では彼らの不信仰がヘブライ語聖書にも預言されていたこと、30-33節ではその不信仰の原因が述べられています。
9:27-28 さらに,イザヤはイスラエルに関してこう叫んでいます。「イスラエルの子らの数は海の砂のようであるとしても,救われるのは残りの者である。エホバが地上で決済をして結末をつけ,しかもそれを短くされるからである」。
25-26節は諸国民の中に救いに選ばれる者がいることの証明でした。27-29節は逆にイスラエル人の中に救いから除かれる者がいることの証明です。
裏付けとして引用されている聖句の一つはイザヤ10章22-23節です。
イザヤはおびただしいイスラエルの民のうち救われる者がほんの一握りであることを示すため「残りの者」という言葉を使っています。この言葉には「イスラエルの大多数が不信仰に陥るとしても、少数は忠実な者が残るように神が守られる」という意味が込められています。残りの者だけが救われるというのであれば、当然救われないイスラエル人もいるということになります。
裏付けとして引用されている聖句の一つはイザヤ10章22-23節です。
イザヤはおびただしいイスラエルの民のうち救われる者がほんの一握りであることを示すため「残りの者」という言葉を使っています。この言葉には「イスラエルの大多数が不信仰に陥るとしても、少数は忠実な者が残るように神が守られる」という意味が込められています。残りの者だけが救われるというのであれば、当然救われないイスラエル人もいるということになります。
9:27-28 さらに,イザヤはイスラエルに関してこう叫んでいます。「イスラエルの子らの数は海の砂のようであるとしても,救われるのは残りの者である。エホバが地上で決済をして結末をつけ,しかもそれを短くされるからである」。
預言どおりエホバは速やかにイスラエルに裁きを下されることになっていました。そのためイザヤはイスラエルに対してこの預言を警告の叫びとして告げたのです。
9:29 また,イザヤがそれ以前に言っていたとおりです,「万軍のエホバがわたしたちに胤を残されなかったなら,わたしたちはソドムのようになり,またゴモラのようにされていたであろう」。
救われるイスラエル人が多くないことを示す預言はまだあります。イザヤ1章9節の言葉もそうです。
「神の特別の計らいによって『胤』、すなわち真のイスラエル人が残されなかったら、イスラエルの救いは絶望的だっただろう」というのがイザヤの預言です。ともするとイスラエルの末路は死海沿岸の悪徳の都ソドムとゴモラのような滅亡状態となっていたかもしれませんでした。そういうわけで救いから除かれる者がイスラエルから出るとしてもそれは驚くにあたらず、むしろ神の当然の裁きの結果といわざるをえないのです。
9:30-31 では,わたしたちは何と言えばよいでしょうか。諸国の人々は,義を追い求めていなかったにもかかわらず,義に,すなわち信仰の結果である義に追いつき,一方イスラエルは,義の律法を追い求めていたにもかかわらず,律法に達しなかったのです。
29節までの議論をまとめると次のような内容となります。
まず諸国民についていうと、彼らは神の前で義とされることを特別に熱望していたわけではありませんでしたが、それでも良いたよりに信仰を持ち、神から義と認められるに至りました。
9:30-31 では,わたしたちは何と言えばよいでしょうか。諸国の人々は,義を追い求めていなかったにもかかわらず,義に,すなわち信仰の結果である義に追いつき,一方イスラエルは,義の律法を追い求めていたにもかかわらず,律法に達しなかったのです。
他方イスラエル人についていうと、彼らは神から義と認められるために極めて熱心に律法を守ろうと努力していましたが、それにもかかわらず神の義はおろか律法の基準すら満たすことができませんでした。
9:32 どんな理由のためですか。彼がそれを,信仰によらず,業によるかのように追い求めたからです。
イスラエルの大部分が努力の甲斐もなく神に是認されなかったのはなぜでしょうか。
イスラエルは義を追い求める点で真面目かつ情熱的であり、その姿勢自体はあながち間違ってはいませんでした。彼らの誤りはむしろ神の方法で義を追い求めなかったことにあります。神の方法とは信仰によって人が義を受けることでしたが、イスラエル人は自分の行いによって義に到達しようと苦心していたのです。
9:32 彼らは「つまずきの石」につまずいたのです。
自己の行いを義とされる根拠に据える人は、キリストへの信仰が義とされる根拠であるという良いたよりを受け入れません。このゆえにイスラエル人もキリストによる義を信じることができず、またキリストを自分たちの主として迎えることができませんでした。かえってキリストが「つまずきの石」すなわち障害となって神の義にたどり着くことができなかったのです。
9:33 「見よ,わたしはシオンに,つまずきの石と,とがのもととなる岩塊とを据える。だが,それに信仰を置く者は失望に至ることがない」と書かれているとおりです。
パウロはイザヤ8章14節と同28章16節を組み合わせて引用し、イスラエルが不信仰によってキリストにつまずいたことの裏付けとしています。
ヘブライ語聖書においてエホバはしばしば「石」と呼ばれていますが、イザヤはこの方がイスラエルにとって結果的に「つまずきの石」となるであろうと予告しました。そしてパウロが述べるとおりこの言葉はイスラエル人が主イエス・キリストにつまずいたことによって成就しました。律法や安息日を厳守せず、罪人と交わり、あげく杭につけられて死んだことなどを理由にイスラエルの民はキリストに失望しました。しかしその不信仰こそが彼らを救いから遠ざける決定的な要因となりました。
石を基礎として築き上げられる人がいれば、同じ石につまずいて挫折する人もいます。同様にキリストへの信仰をよりどころとして神の義に達する人がいれば、キリストに失望して救いから脱落してしまう人もいます。救われるかどうかを分ける石はイエス・キリストです。この石に信頼を寄せる者だけが救いを確保するのです。
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