神の選びの権限(ローマ9:19-26)





神の選びの教理は時として「神は不公平ではないのか」という不服を生じさせます。しかし神が不公平だということは断じてありません。19-26節はその理由を述べます。




9:19 そこであなたはわたしに言うでしょう,「なぜ神はなおもとがめるのか。いったいだれがその明示されたご意志に抗しえただろうか」と。

神が人をかたくなにされると聞いてこう反論する人がいます。「神が勝手に人をかたくなにされるのだから、たとえわたしの心がかたくなになってもわたしに責任はない。どのみち神がお定めになることに人間は抵抗できないのだから」。




9:20 人よ,神に言い逆らうとは,いったいあなたは何者なのですか。

神が不公平であると主張する意見に対してパウロが答弁します。彼は「人間が神に対して口答えをするとは無礼極まりない」と断じます。神が人間をどう用いようが、人間はそれに異議を差し挟むことができません。




9:20 形作られたものが,それを形作った者に向かって,「なぜわたしをこのように作ったのか」と言うでしょうか。

前提として認識しておくべきなのは、神と人間の関係が「形作った者」と「形作られたもの」の関係であるという点です。神は万物の創造者であり、人間は創造物です。創造物を自らの栄光のために用いることは創造者にとってまったく正しいことです。創造物である自分がどう用いられようと人間の側に言い逆らう権利はありません。

特にわたしたちはもともと自分の罪のために滅ぶべき創造物なのですから、少なくとも自分の罪を自覚する者は、自分の扱いや境遇について神に不平を述べる権利がないことをわきまえるはずです。神は義人ヨブに苦難が相次ぐのをお許しになりましたが、それでもヨブは神の主権を認め、神の意志に服すべきことを認めました。(ヨブ42:1-6) わたしたちもそうあるべきです。




9:21 どうでしょう。陶器師は,粘土に対して,同じ固まりから,一つの器を誉れある用途のために,別のものを誉れのない用途のために作る権限を持っていないでしょうか。

一介の創造物が創造者に不平を言う不遜さは、21節に登場する陶器師と器の例えによって一層浮き彫りにされます。神を陶器師になぞらえる思想はヘブライ語聖書中にもあり、(イザヤ29:16、イザヤ45:9-12、エレミヤ18:5-11) ユダヤ人たちはこれを真理として受け入れていました。

神が人間に対して絶対的権限を持たれることは陶器師が粘土に絶対的権限を持つのと同じです。明記されてはいませんが、「権限を持っていないだろうか」との問いに対する答えが「当然持っている」であることは言うまでもありません。同じ粘土を複数の異なる用途に向けようとも、それは陶器師の自由です。同様に人間をどんな運命に向けようとも、つまりある人を「誉れある用途」に、別の人を「誉れのない用途」に向けようともそれは神の自由なのです。




9:22-23 そこで,もし神が,ご自分の憤りを表明し,かつご自分の力を知らせようとの意志を持ちながらも,滅びのために整えられた憤りの器を,多大の辛抱強さをもって忍び,それによって憐れみの器に対するご自分の栄光の富を知らせようとされたのであれば,どうなのでしょうか。

神は意のままに人間を選び、救われる者と滅ぶ者に分けられます。

滅ぶ者たちは声を大にして「神のなさることは何と理不尽なことか」と言うかもしれません。しかしそれを言う権利はありません。この人々は神の憤りによって滅びるのが当然だからです。なぜでしょうか。滅ぶ者とはすなわち良いたよりに信仰を置かない人であり、このような人は不信仰によって裁きを受けるべき存在であることを自ら露呈しているからです。

ところが神が滅ぶ者、すなわち「憤りの器」に通常ならありえない配慮を示されたとしたらどうでしょうか。つまり罪と不信仰ゆえに滅んでもおかしくない憤りの器に対して格別の辛抱を示し、下すべき裁きを猶予されたとしたらどうでしょうか。これは神の並外れた寛容さとしか言いようがありません。憤りの器である人々はどうしてこれに異議を唱えられるでしょうか。




9:22-23 そこで,もし神が,ご自分の憤りを表明し,かつご自分の力を知らせようとの意志を持ちながらも,滅びのために整えられた憤りの器を,多大の辛抱強さをもって忍び,それによって憐れみの器に対するご自分の栄光の富を知らせようとされたのであれば,どうなのでしょうか。

そのうえ神が救われる者、すなわち「憐れみの器」に対しても特別の恩恵を施されるとしたらどうでしょうか。つまり辛抱を示すことで神がご自身の栄光の豊かさをわたしたちに悟らせてくださっているとしたらどうでしょうか。これもまた神の過分の親切というほかありません。今度は憐れみの器である人々にとっても異議を差し挟む余地が完全になくなります。

神は「憤りの器」に対して多大の忍耐を、「憐れみの器」に対しては多大の栄光を示されたのです。このことを知る者はもはや神を非難することなどできないに違いありません。




9:23-24 その憐れみの器とは神が栄光のためにあらかじめ備えられたもの,すなわちわたしたちであり,ユダヤ人だけでなく,諸国民の中からも召されているのです。

「憐れみの器」とはクリスチャンとして召された者たちのことです。そこにはユダヤ人から出た者も諸国民から出た者もいます。神はクリスチャン会衆を構成する者たちをあらかじめ選び、ユダヤ人も諸国民も関係なく含めてこれを憐れみの器とされました。わたしたちもヤコブのように「良いこともいとうべきことも行なっていなかった時に」憐れみの器として整えられていたのです。




9:25-26 ホセアの書の中でも言っておられるとおりです。「わたしの民ではなかった者を『わたしの民』と呼び,愛していなかった女を『わたしの愛する者』と呼ぶであろう。そして彼らは,『あなた方はわたしの民ではない』と言われたその場所で,『生ける神の子ら』と呼ばれるであろう」。

憐れみの器とされる者が「諸国民の中からも召されている」というのは本当でしょうか。パウロはホセア110節と同223節を引用し、ヘブライ語聖書にその根拠があることを証明します。

諸国民はもともと神から見て「わたしの民ではなかった者」であり、「愛していなかった女」でした。しかしホセアは、彼らがやがて「わたしの民」や「わたしの愛する者」と神から呼ばれるようになると預言しています。また諸国民がイスラエルでない土地にいながら神の子として迎えられるとも預言しています。

もっともホセアは不信仰なイスラエル十部族を指してこれらの言葉を語りました。つまり彼らが一度は神から退けられるが再び神に迎えられて回復を経験するということを告げているわけです。とはいえパウロはこの不信仰なイスラエル十部族を諸国民の予型と見なし、そのうえで「この預言は諸国民が憐れみの器であるクリスチャンとして神に召されることを示している」と説明しているのです。