自由な選び(ローマ9:14-18)
神はご自身の目的を果たすために人を自由に選ばれます。14-16節では神が意のままに人を憐れまれること、17節では神が意のままに人をかたくなにさせられることが説明されています。
9:14 では,何と言えばよいでしょうか。神に不正があるのですか。
「独断的にヤコブを愛したりエサウを憎んだりする行為は到底公正なものと思えない」。ヤコブとエサウの話を聞いた人はそう思うかもしれません。
9:14-15 断じてそのようなことにはならないように! 神はモーセに,「わたしはだれでも自分の憐れむ者を憐れみ,自分が情けをかける者に情けをかける」と言っておられるからです。
パウロは上記の意見を厳しい調子で否定し、神の絶対的権能と公正を説いていきます。特にイスラエル人が重んじるヘブライ語聖書を用いる方法で反論しています。
神の慈悲は人の価値や功績に応じてではなく、まったく自由な神の意志に基づいて施されます。これは出エジプト記33章19節で神がモーセに言われたとおりです。
なお「憐れむ」と訳されているギリシャ語eleeóには「人の苦痛を憐れんで助けの行動に出る」という意味があります。また「情けをかける」と訳されているギリシャ語oiktiróには「同情と慈悲で心が満たされる」という意味合いを持ちます。つまり人間の不憫な様子を見て「情けをかける」心が芽生え、それが「憐れむ」という言動になって表れる。これが神の憐れみと情けの具体的内容と理解できます。
9:16 それですから,願う者にでも走る者にでもなく,ただ憐れみを持たれる神にかかっているのです。
神の憐れみは人間の意思や欲求に応じて与えられるものではありません。「願う者」にかかっているわけではないとあるとおりです。
またそれは人間の努力や働きに対する報いとして与えられるのでもありません。「走る者」にかかっているわけでもないとあるとおりです。
神の愛と全知全能を信じ、なおかつ自分の罪の深さを認識する者は、神が心のままに憐れみを施されることについて何も異議を差し挟まないはずです。たとえ自分が憐れみの恩恵にあずかれないとしてもです。わたしたちの側にはいかなる理由があっても神の憐れみを要求する権利などなく、神の側にこれを与えなければならない義務もありません。
9:17 聖書はファラオにこう言っているからです。「あなたに関連してわたしが自分の力を示すため,またわたしの名が全地で宣明されるため,まさにこのために,わたしはあなたを長らえさせたのである」。
ヘブライ語聖書には神が憐れみ以外のものも意のままに施す方であることが示されています。たとえば神はエジプトのファラオの心に力を及ぼしてモーセに反対させ、イスラエルの上に圧迫を加えるようにさせました。神の目的はファラオの反抗的な態度を利用してご自身の全能性と聖なる名を世界に広く知らせることでした。ファラオは知らずのうちに神の手先として働き、こうしてイスラエルは神の目的どおりにエジプトを脱出することができたのです。実際に神は出エジプト記9章16節で「わたし自身がファラオを選んでその役割を果たさせた」と言っておられます。パウロはその聖句をここに引用しています。
9:18 それですから,神は,ご自分の望む者を憐れみ,またご自分の望む者をかたくなにならせるのです。
14-17節からわかるのは、神がすべてのことを自由に行われるということです。これが神の主権です。
モーセに示されたとおり慈悲を施すべき人を神がまったくの独断でお決めになるとしても、それはすべて神の自由です。またファラオの場合のようにかたくなにならせるべき人を神がまったくの独断でお決めになるとしても、それはすべて神の自由です。わたしたちはすべてを神の手にゆだねて神の意志に服従すべきです。
神は自由を必ず人間の益のために行使されますので、わたしたちは何も気を揉むに及びません。そしてもし神がその自由を勝手気ままに用いられない場合があるとしたら、それはひとえに神の愛の表れであり、この場合もわたしたちは神の決定に喜んで服すことができます。
神は自由を必ず人間の益のために行使されますので、わたしたちは何も気を揉むに及びません。そしてもし神がその自由を勝手気ままに用いられない場合があるとしたら、それはひとえに神の愛の表れであり、この場合もわたしたちは神の決定に喜んで服すことができます。
神が人の心に望ましくない影響を与えるはずがないという先入観から「かたくなにする」という表現に手心を加えるような解釈もあり、その解釈によればこの表現は「人が自分から心をかたくなにすることを神が許される」ことを意味しているにすぎません。しかしそう解釈してこの表現の語調を弱めようとするのは不適当です。むしろこの表現は何の制限も受けずに思うところを遂げうる神の権能を大胆に示していると理解すべきでしょう。
最新の投稿
賛美(ローマ16:25-27)
雄大無比の賛美文によってローマ書が締めくくられます。この賛美の中には ローマ書全体の主要な考えがすべて含まれています。 25-27 節はギリシャ語原文上でも難解で、翻訳も困難を極める箇所ですが、分解しながら考察することにより以下の主要な事実を読み取ることができま...
