兄弟を裁かない②(ローマ14:5-9)
14:5 ある人は,ある日がほかの日に勝ると判断し,別の人は,どの日もほかのすべての日と同じであると判断します。
ローマ会衆で生じていた意見の対立の二つ目は祭日の問題でした。
信仰の弱い者は特定の日を祝うべき日として重んじていました。ユダヤ人の中にはこれまで律法の習慣に従って守ってきた祭日を捨てがたく思う人たちもいたらしく、彼らはクリスチャンとなった後もそれを祝っていたようです。
14:5 ある人は,ある日がほかの日に勝ると判断し,別の人は,どの日もほかのすべての日と同じであると判断します。
信仰の強い者はというと、特定の日を祝うことなどは特段気にかけていませんでした。
14:5 おのおの自分の思いの中で得心していなさい。
二つの意見は対照的ですが、実際のところこれは信仰にかかわる根本的な問題などではなく、個人が自由に決めてよいレベルの問題です。大切なのはどのような心でそれを行うかです。すなわちどちらの考え方を持つにせよ「主に仕えるために自分はこうすべきだと思う」という確信があり、なおかつ主がそれを喜ばれると得心していることが肝要なのです。
しかしながらこれはあくまで自分のとるべき態度の話であって、他者には自分と別に神から与えられた確信があるはずです。自分の決定を唯一の正解と思うべきでないのはそのためです。
14:6 日を守る者は,それをエホバに対して守ります。
クリスチャンは主を喜ばせたいとの心で自分の行動を選択します。祭日の問題で大事なのは、その日を守るか守らないかではなく、それをどのような動機で行うかです。日を守ると決めた人は主がそれを喜ばれると確信して守るべきです。
14:6 また,食べる者は,エホバに対して食べます。
飲食の問題にしてもしかりです。クリスチャンのだれかが「飲食は自由だ」考えるとしても、それが主の意志を意識したうえでの判断であれば問題ありません。
14:6 その人は神に感謝をささげるからです。
その自由なクリスチャンが神に感謝しつつ食べているのならなおさらです。神が与えてくださったものを何一つ遠慮したくないという考えは至ってまともであり、何ら非難されるようなものではありません。
14:6 そして,食べない者は,エホバに対して食べません。
逆にクリスチャンのだれかが主のためと思って飲食を抑制する場合はどうでしょうか。これもまた主の意志を意識した結果であれば何ら差し支えありません。
14:6 それでもその人は神に感謝をささげます。
そもそもキリストが喜んでくださることを考えて飲食に制限を加えているわけですから、これに対して不平を持つことはないでしょうし、かえってわずかな食物に対してその分神に感謝をささげる心が生まれるでしょう。これはこれですばらしいことです。
14:7 事実,わたしたちはだれ一人,ただ自分に関してのみ生きるのではありません。
イエス・キリストとクリスチャン個人との関係はまさに主と僕の関係です。クリスチャンとなった以上わたしたちは自分の好き勝手に生きるわけにはいきません。
14:7 また,だれ一人,ただ自分に関してのみ死ぬのでもありません。
世の人は当たり前のように自分のために生き、そして死んでいきます。しかしクリスチャンは違います。
14:8 わたしたちは,生きるならエホバに対して生き,死ぬならエホバに対して死ぬからです。
わたしたちは生きる限り自分の命を主のために使い果たさなければなりません。また主の意志であれば死さえもいとわない覚悟でいるべきです。その人生に他人が介入できる余地はありません。わたしたちが主ではなく他のクリスチャンの意見を気にするなら、もはやそこに主の僕にふさわしい献身の姿はありません。
14:8 それゆえ,生きるにしても死ぬにしても,わたしたちはエホバのものです。
自分の死も命もすべてはキリストのものです。生者である今も死者となった時も、わたしたちの主はキリストです。人はこの事実を知って初めて自分の欲望を捨てることができ、清い生活を送ることができるようになるのです。
14:9 死んだ者にも生きている者にも主となること,このためにキリストは死に,そして生き返ったからです。
クリスチャンが生死をかけてキリストに服することには理由があります。キリストだけが生者と死者の上に立つ主としてふさわしい方だからという理由です。
キリストはわたしたちの贖いとして死んでくださいましたが、それにより「死んだ者」の上に立つにふさわしい主となられました。キリストはまた死に打ち勝ってよみがえり、再び生きておられますが、これにより現に「生きている者」の上に立つにふさわしい主ともなられました。ゆえにわたしたちは生きても死んでもキリストの支配の及ばない領域に行くことができないのです。
4節の注解でも触れた点ですが、「主」がキリストを指すことはここではっきりと示されています。「わたしたちの主というのは、死んで復活したからこそ人間にとって『生きるにしても死ぬにしても』主となりうる方だ」というのが9節の趣旨です。「死んで復活した」という表現に当てはまる方はイエス・キリスト以外に存在しません。
なお4-9節に出てくる「エホバ」という語はもともと「主」と書かれた語を訳し換えたものだという話を4節の注解でしましたが、その証拠に9節には「主となる」という語が残っています。新世界訳は9節の「主となる」だけ「エホバとなる」に置き換えませんでした。理由は明白です。「死んだ者にも生きている者にもエホバとなること,このためにキリストは死に,そして生き返ったからです」とパウロが書いたことになってしまうからです。
よってパウロが9節で「主となる」という言葉を使っていていたのは事実だったことになります。決して「もともとパウロは『エホバ』という語を使って説明していたが、後代の写本家が『主』に置き換えたのだ」という話にはならないということです。
であれば同じ文脈の中で使われている「主」も、つまり4-9節のその他の箇所で新世界訳が「エホバ」という語を置いている箇所も、最初から「主」という語が入っていたと考えるのが適切ではないでしょうか。実のところそう考えて読んだほうが論述に一貫性を見いだせます。
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