兄弟をつまずかせない①(ローマ14:13-18)
1-12節で勧められていたのは、クリスチャンが相手方に合わせて考え方を調整することです。これに対し13-23節は、クリスチャンが相手方に合わせて行動さえも調整することを勧めています。
さらに言うと1-12節は弱い人と強い人の両方に向けて語られていましたが、13-23節は主に強い人に向けて語られています。行動を調整することにはより成熟した信仰が求められるからであり、信仰の強い者はこの点で率先して弱い者を助けていく務めがあるからです。
14:13 ですから,もはや互いに裁くことがないようにしましょう。
強い者も弱い者も互いを否定すべきでないことはすでに諭されたとおりです。これまで強い人に対しては「見下げてはならない」、弱い人に対しては「裁いてはならない」という助言が与えられていました。とはいえこの二つは結局のところ「裁いてはならない」という助言に要約されます。
14:13 それよりも,兄弟の前につまずきとなるものや転ぶもとになるものを置かないこと,これをあなた方の決意としなさい。
しかし兄弟愛において一歩前進したければ、裁かない以上のことが必要です。さらに必要なのは、自分が正しいと信じる行動を差し控えてでも弱い兄弟の信仰を妨害することのないよう決心することです。これが13-23節の論点です。
「つまずきとなるもの」と訳されているギリシャ語proskommaの語義は「つまずき」です。つまずくとはクリスチャンの歩みにおいて足を取られ、信仰が弱まることを指します。
もし弱い兄弟が強い者の行為を見てショックを受けるなら、強い者は「つまずきとなるもの」を置いたことになるかもしれません。もし弱い兄弟が良心に逆らってまで強い者の行為を真似するなら、強い者は「転ぶもとになるもの」を置いたことになるかもしれません。
14:14 わたしは知り,また主イエスにあって確信しているのですが,それ自体で汚れている物は何もありません。
パウロ自身は律法に記されていたような食物の規定にとらわれていませんでした。そのため本質的には食物に清い物と汚れた物の区分などないと堅く信じていました。理論上この確信は何ら間違っていません。
パウロは上記のことを「主イエスにあって確信している」と述べました。主イエスによってモーセの律法は撤廃され、新しい愛の律法が生まれました。ゆえにイエスへの信仰に堅く立つ者はパウロと同じく律法主義的な考え方をしません。
14:14 ただ,人がある物を汚れていると考える場合にのみ,その人にとってそれは汚れたものなのです。
とはいえ過去の習慣や思想から完全に脱出できないクリスチャンもいます。その人がある種の食物を汚れていると判断する場合、その食物は汚れたものとなります。ただしそれはその人の主観的世界に限ってのことです。
14:15 食物のためにあなたの兄弟を悲嘆させているなら,あなたはもはや愛にしたがって歩んではいません。
もし強い者が自由気ままに飲食したばかりにそれを見た弱い兄弟が心中穏やかでいられなくなるとしたらどうでしょうか。強い者のその行動は愛を欠いたものといわざるをえなくなります。(コリント第一8:7-13) もしも弱い兄弟が「こんな自由奔放な信仰には付いて行けない」などと感じるようになるのであればなおさらです。
14:15 キリストがそのために死んでくださった人を,あなたの食物のために破滅させてはなりません。
はたして飲食の自由は兄弟を不信仰と滅びに追いやってまで主張すべきことでしょうか。キリストはその兄弟を信仰と救いに導こうとして命さえもお捨てになったのです。わたしたちが自分の好む食べ物や飲み物を兄弟のために控えることぐらい物の数ではありません。
14:16 それゆえ,自分の行なう良いことのために悪く言われるようなことがないようにしなさい。
強い信仰の結果として霊の自由を持つのは「良いこと」です。しかしこの自由を構うことなく行使すれば弱い兄弟がつまずくかもしれませんし、ひいては会衆の平和が損なわれるかもしれません。結果としてこうしたクリスチャン会衆の恥ずかしむべきありさまを人々にそしられるようになるのであれば、それはよろしくありません。
14:17 神の王国は,食べることや飲むことではなく,義と平和と聖霊による喜びとを意味しているからです。
神の王国において重要視されるのは決して何を飲み食いするかという点ではありません。これは将来の神の王国に限らず、現に神がわたしたちを支配してくださっている状態、すなわち現在のクリスチャン会衆においてもいえることです。
14:17 神の王国は,食べることや飲むことではなく,義と平和と聖霊による喜びとを意味しているからです。
神の王国において重要とされるのはそこに「義」があるかどうかです。もしクリスチャンが飲食のような問題で互いに愛を欠く態度をとっているなら、それは義といえません。
さらに重要なのはそこに「平和」があるかどうかです。もしクリスチャンが互いに争い合っているなら、それは平和といえません。
14:18 この点でキリストのために奴隷として仕える者は神に受け入れられ,また人からも是認されるのです。
神はわたしたちが神の支配される場所にふさわしい姿でキリストに仕えることを喜ばれます。そのような人は神に喜ばれるだけでなく、外部の人々、つまり自分が喜ばせようとしていたわけではない人たちからも感心な者として評価され、神に栄光を帰すことができます。
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