兄弟を裁かない③(ローマ14:10-12)





14:10 それなのに,あなたはなぜ自分の兄弟を裁くのですか。

弱い者は強い兄弟を裁いてはなりません。




14:10 また,なぜ自分の兄弟を見下げたりするのですか。

強い者は弱い兄弟を見下げてはなりません。




14:10 わたしたちはみな,神の裁きの座の前に立つことになるのです。

すべての人は世の終わりに神の裁きの座の前に立たされ、神にゆだねられて玉座に座すキリストの裁きを受けなければならないのです。(コリント第二5:10) それゆえ自分が裁き主でもあるかのように他のクリスチャンの振る舞いに口出しすることは慎まなければなりません。




14:11 「エホバは言われる,『わたしが生きているごとく,すべてのひざはわたしに対してかがみ,すべての舌は神を公に認めるであろう』」と書かれているからです。

世の終わりに神の裁きがあることの証明としてイザヤ4918節と同4523節が引用されています。

「わたしが生きている」という言葉は神が永遠に実在しておられること、また全能の力を有しておられることを示唆する宣言です。こう宣言する方ご自身が最後にわたしたち一人一人を裁かれるのです。イザヤの言葉どおり神は終わりの日に栄光のうちに裁きを行われます。すべての人はその前にひざまずき、自分の罪を告白しつつ神の名を認める、あるいは認めざるをえなくなるでしょう。




14:12 それですから,わたしたちは各々,神に対して自分の言い開きをすることになるのです。

ギリシャ語原文で「言い開きをすることになる」は未来形動詞です。「言い開きするだろう」という意味合いです。裁きの日にはわたしたち一人一人が神の前で自分の心や行為について申し開きをしなければならないのです。したがって他人から裁かれることを気に留める必要はありませんし、自分自身も他人を裁いている場合ではありません。すべてのことを神と主イエス・キリストに対して、そしてその僕として行うべきなのです。

救いと直接関係ない問題については、これをクリスチャンの自由に属する問題としてとらえるべきです。何を食べるかとか日を祝うかなどに加え、聞く音楽、見る映画、楽しむ娯楽、その他の伝統や文化的慣習を守るかどうかなどがこの部類の問題に含まれるかもしれません。

快いものを見たり聞いたり楽しんだりする感覚を人間に付与したのは神ですから、それらの楽しみ自体が根本的に悪であることはありえません。ただ本人がその行為を良しとすることにやましさを感じるようであれば、結果的にその判断は間違いとなります。もちろんこの類の判断はクリスチャン同士であっても信仰の強弱によって違ってきます。

わたしたちはだれも自分の判断を他者の意見に依存させる必要はありません。ただ神の裁きにおいて言い開きのできる立場に自分を置き、その立場で自由に行動することが大事なのです。