賜物の活用①(ローマ12:3-5)
2節で学んだとおりクリスチャンには「神のご意志を自らわきまえ知る」ことが求められています。パウロは3節以降でわたしたちに対する神の意志を一つ一つ述べ、それを実践するよう諭しています。
3-8節はクリスチャンが自分の信仰に関して謙遜と分別を示すべきことを教えています。なかでも6-8節にはクリスチャン各自にどのように異なる賜物が与えられているかが具体的に示されています。
12:3 わたしは,自分に与えられた過分のご親切によって,あなた方の中のすべての人に言います。
パウロは1節の「懇願する」と幾分異なった「言う」という表現を使い、一層強い指示を与えようとしています。
彼は「自分に与えられた過分のご親切によって」あなた方に言うと述べていますが、これは過分の親切によってゆだねられた使徒職の権威のことを指しているといえるでしょう。パウロはここから使徒としての立場でクリスチャンのあるべき状態に関する指導を与えます。
12:3 自分のことを必要以上に考えてはなりません。
まずわたしたちは「自分のことを必要以上に考える」傾向、すなわち自分を過大評価する傾向に注意すべきです。人によっては自分が神から受けた分以上の信仰を持っているかのように自己評価してしまう傾向があるかもしれません。平衡のとれた見方は大切です。自分の思いを抑制して慎み深くあり、自分の信仰の限界を超えた行動に出ることのないよう気をつける必要があります。
12:3 むしろ,神が各々に信仰を分け与えてくださったところに応じ,健全な思いを抱けるような考え方をしなさい。
クリスチャン各自は神から自分にふさわしい信仰が分配されています。その結果各人の信仰の性質や表れ方は自然と異なってきます。「健全な思い」とは、神が自分に与えてくださった信仰を正しく受け止め、それに応じて自分の担える役割とそうでない役割、自分のなすべき務めなどを判断することです。
12:4-5 わたしたちが一つの体に多くの肢体を持っていても,その肢体がみな同じ機能を持つわけではないのと同じように,わたしたちも,数多くいるにしても,キリストと結ばれた一つの体であり,また,それぞれ互いに所属し合う肢体であるからです。
クリスチャンといえど信仰の程度や可能性が異なるというのは不公平なことでしょうか。そのようなことはありません。パウロは人体を比喩にしてクリスチャン会衆の多様性のすばらしさを訴えています。
人体の各部位、すなわち目や耳や手や足は一個一個機能が違います。それでも互いに機能を補い助け合って一つの身体を構成しています。もしすべての器官が同一の機能を持っていたなら、人間の体は人間の体として成り立たなくなってしまいます。
12:4-5 わたしたちが一つの体に多くの肢体を持っていても,その肢体がみな同じ機能を持つわけではないのと同じように,わたしたちも,数多くいるにしても,キリストと結ばれた一つの体であり,また,それぞれ互いに所属し合う肢体であるからです。
会衆はキリストを頭とした一つの体です。(エフェソス5:21-33、コロサイ1:18-20) そして一人一人のクリスチャンは「肢体」すなわち各部位です。クリスチャンの持つ信仰の程度や与えられた使命はそれぞれに異なりますが、それらがキリストのもとに結合することによって調和のとれたクリスチャン会衆が維持されるのです。(コリント第一12:12-26)
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