敵への愛②(ローマ12:19-21)





12:19 わたしの愛する者たち,自分で復しゅうをしてはなりません。

すべての不正や不義の上には最後の裁きの日に神の怒りが下ります。わたしたちが差し出て悪への怒りを発するならば、それはかえって神の義なる憤りの表れを妨げることとなりかねません。ゆえに自ら復讐しようと正義感を燃やす必要はありません。

正義感ゆえに迫害者への復讐心に燃える人がローマの兄弟たちの中にもいたかもしれません。「わたしの愛する者たち」という呼びかけは、そのようなクリスチャンの心をなだめようとするパウロの配慮が表れています。




12:19 むしろ神の憤りに道を譲りなさい。

「神の憤りに道を譲る」といっても、それは自分で復讐しない代わりに神の裁きが下るのを見て痛快な気分を味わうということではありません。わたしたちがすべきなのはただ敵を愛し、その救いを祈ることです。




12:19 こう書いてあるからです。「復しゅうはわたしのもの,わたしが返報する,とエホバは言われる」。

わたしたちが復讐すべきでないことはヘブライ語聖書にも明記されています。パウロは申命記3235節を引用し、復讐は主なる神ご自身が遂げられるものであることを教えています。神の復讐は絶対に公正であり、確実です。神の復讐が下れば悪は必ず滅びます。これを信頼するならわたしたちは安心して「神の憤りに道を譲る」ことができるのではないでしょうか。




12:20 そしてこうあるのです。「あなたの敵が飢えているなら,食べさせなさい。渇いているなら,飲む物を与えなさい。そうすれば,燃える炭火を彼の頭に積むことになるのである」。

もう一つパウロは箴言2521-22節を引用し、同様の教訓を与えます。敵への愛は単に憎まないことだけでなく、必要な物を与えて積極的に助けるという行動によっても表されます。




12:20 そしてこうあるのです。「あなたの敵が飢えているなら,食べさせなさい。渇いているなら,飲む物を与えなさい。そうすれば,燃える炭火を彼の頭に積むことになるのである」。

敵を助けるならわたしたちは相手の頭に「燃える炭火を積む」ことができます。どういう意味でしょうか。

これは一つの解釈ですが、「燃える炭火」は本人に苦悶を生じさせる感情、言い換えれば後悔や自責の念を指すとも考えられます。もし悪人に仕返しをするなら、相手はますます怒り、さらに悪事を働き、やがて悪を恥じる意識すら持たなくなるかもしれません。しかしもしわたしたちが悪人に仕返しせず、かえって困っているときに助けを差し伸べるなら、相手の心は和らいで冷静になり、次第に自分の行いを強く後悔するようになるでしょう。こうして悪人を悔い改めに導くという目的を達成することができるわけです。






12:21 悪に征服されてはなりません。

他人が自分にもたらす害悪のために心が理性と平静と正しい態度を失うなら、それは悪に負けたことを意味します。




12:21 むしろ,善をもって悪を征服してゆきなさい。

反対にわたしたちが親切な行いによって悪者の心を悔い改めさせることができたなら、それは悪に勝ったことを意味します。ぜひとも善の力で悪を征服していきたいものです。