敵への愛①(ローマ12:14-18)
14-21節は主に会衆外で適用すべき愛の原則を述べています。
12:14 迫害する人を祝福しつづけなさい。
クリスチャンは自分に危害を加える人さえも愛し、神の祝福がその上に注がれるよう祈るべきです。これは御父の完全な愛の模倣する行為であって、イエスご自身も教えられた愛です。(マタイ5:43-48) もしかするとパウロはイエスの教えを間接的に聞き、その言葉を借りる形で14節の言葉を記したのかもしれません。
12:14 祝福するのであって,のろってはなりません。
迫害する人のために祝福を祈りながら、他方でその人に災いが下ることを祈ることはできません。
12:15 歓ぶ人たちと共に歓び,泣く人たちと共に泣きなさい。
「共に歓ぶ」こと、そして「共に泣く」こと。これこそ愛と同情の極致です。他者のことを自分のことと同じように思うなら自然とこれを実践することができます。
12:16 他の人たちのことを,自分自身に対すると同じような気持ちで考えなさい。
互いに愛し合う者は相手のことを自分のことのように感じ、その結果互いに思いが一つになります。これに勝って美しい関係はありません。
12:16 高ぶった事柄を思わず,むしろ,へりくだった事柄を求めなさい。
誇り高ぶる傾向を捨てることもまた健全な愛と信仰の表れです。野心や虚栄心を捨てることもそうです。
謙遜な者は立場の弱い人や苦しむ人たちと交わることを望みます。思いがへりくだっているゆえに自然とそのような人々に心が引き寄せられるのです。
12:16 ただ自分の目から見て思慮深い者となってはなりません。
謙遜な心でいたいなら、自分を賢いと見なす傾向を正さなければなりません。自分を賢い者と思う心がうぬぼれの原因となり、種々の不和の原因ともなります。思慮深くありたいと願うことは結構ですが、そうありながらも人の意見を謙虚に聞き入れることはもっと大事です。
12:17 だれに対しても,悪に悪を返してはなりません。
悪を行う人に仕返しをしないことはイエスも教えられたとおりです。(マタイ5:38-42) 若いころのパウロの心には「悪には悪で報いよ」というパリサイ主義が根付いていたことでしょう。それでもイエスの愛の教えを聞き、自分の考えを根底から覆し、ついに「悪には善で報いよ」という精神を持つことができるようになったのです。
12:17 すべての人の前に良いものを備えなさい。
たとえ自分に悪を行う人がいても、真のクリスチャンはその人の益を考え、それを実行するよう心がけるものです。自分に害を加える人を偽善のない心で愛するのは至難の行為といえます。呪いたくなる気持ちがわき起こっても全然おかしくはないのです。このような場合どうすれば真の愛を表し、「良いものを備える」ことができるでしょうか。重要な指針が二つあります。
一つは謙遜さをもって相手を愛することです。謙遜な心を抜きにして示される愛は宗教的高慢に変質する危険があります。真の愛は謙遜さ、それも神に対する徹底的な謙遜さから出なければなりません。要は自分が相手とまったく同じ罪人であり、神の前では悪人以外の何者でもないことを強く自覚しなければならないのです。これを自覚して初めてわたしたちは罪人を愛してくださった神の愛を自分も他者に対して表したいと思うようになります。
もう一つ重要なのは信仰を土台として相手を愛することです。クリスチャンの信仰を不屈にさせるのは、8章35-39節にあったようにどんな迫害も自分を神の愛から引き離しえないという事実です。これを確信する者は無敵であり、無敵のクリスチャンはいかなる敵をも脅威には感じません。敵を愛することはたやすく、むしろ敵を憐れむことさえできるようにさえなります。反対に呪う行為は敵から受ける害を恐れる気持ちから生まれるものです。わたしたちには何も恐れる理由がないはずであり、これがクリスチャンの信仰であるわけです。わたしたちのうちに強く根付いた信仰は、敵さえも純粋に愛する最強の愛となって表れるのです。
12:18 できるなら,あなた方に関するかぎり,すべての人に対して平和を求めなさい。
わたしたちは神の栄光を損なわない限りで他者との平和な関係を築くよう力を尽くすべきです。平和を求める者は幸いです。ただし相手方が絶対に平和を望まないときは仕方ありません。それでパウロは「あなた方に関するかぎり」と述べています。
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