残りの者②(ローマ11:7-12)





11:7 では,どうなるのですか。イスラエルは自分が切に追い求めているものを得ず,ただ選ばれた者がそれを得たのです。

大部分のイスラエルは求めていた神の義と救いを得ることができず、その中の選ばれた者だけがそれを得る結果となりました。




11:7 あとの者は感覚を鈍くされました。

選ばれないイスラエル人たちは心の無感覚さゆえに神の意志を悟ることができなかったということになります。これは彼らが正確な知識によらずに義を追い求めた結果です。

「感覚を鈍くする」という言葉が使われていますが、これはギリシャ語póroóの訳語で、本来は「たこのように硬くなった皮膚で覆う」というような意味があります。そこから転じて「頑固にする」とか「鈍くする」などの意味が生じました。




11:8 「神は彼らに深い眠りの霊を与え,今日この日に至るまで,目が見えないように,耳が聞こえないようにされた」と書かれているとおりです。

感覚の鈍くなったイスラエル人の状態はヘブライ語聖書にも預言されていたということで、8節ではイザヤ2910節と申命記294節を部分的に継ぎ合わせた言葉が引用されています。モーセの時代もイザヤの時代もそうでしたが、多くのイスラエル人は心が麻痺しており、神の思いを悟る点で盲目でした。不信仰な1世紀のイスラエル人も神の目には同じように映ったに違いありません。




11:9-10 また,ダビデはこう言っています。「彼らの食卓が彼らにとってわな,仕掛け,つまずきのもと,応報となるように。彼らの目は暗くなって見えなくなるように。またその背を常にかがませてください」。

さらに詩編6922-23節が引用されています。詩編69編はダビデが不信仰な同族に迫害される時の心持ちを歌った詩で、引用された部分は迫害者たちの上に罰が下されることを祈った箇所です。趣旨は以下のとおりです。

「彼らの食卓が彼らにとってわな,仕掛け,つまずきのもととなるように」。迫害者たちが宴を開いて楽しんでいる最中に突然神の裁きの網が降りかかり、迫害者たちが捕らえられるようにという意味です。そういう意味でその宴は彼らにとって罠となります。1世紀のユダヤ人は自分の律法の業やユダヤ人としての身分ゆえに誇りと歓喜に浸っていました。まるで宴を楽しんでいるかのような状態です。ところがこの状態が逆に彼らを神の呪いに陥れることとなるのです。ちなみに罠の中には滑りやすい素材の木片が付いており、これが動いて獲物が引っかかるしくみとなっています。「つまずきのもと」とはたぶんこれのことでしょう。

「応報となるように」。確実に神の裁きが臨むことで不信仰な者たちがしかるべき罰を受けるようにという意味です。神の民を虐げ、キリストを拒み、自分の歓楽ばかりを追い求める人には必ず応報が臨みます。




11:9-10 また,ダビデはこう言っています。「彼らの食卓が彼らにとってわな,仕掛け,つまずきのもと,応報となるように。彼らの目は暗くなって見えなくなるように。またその背を常にかがませてください」。

「彼らの目は暗くなって見えなくなるように」。突然降りかかった災いにうろたえて彼らの目がくらみますようにという意味です。

「その背を常にかがませてください」。捕らえられた罠の中で恐ろしさに腰を抜かし、頭も上げられない状態になりますようにという意味です。




11:11 そこでわたしは尋ねます。彼らはつまずいて全く倒れてしまったのですか。

イスラエルはイエスを信じることができず、この方につまずきました。それで「ではその結果イスラエル人は全員倒れ、永遠の滅びに入ってしまうのだろうか」という疑問が起こります。




11:11 断じてそのようなことはないように! しかし,彼らの踏み外しによって諸国の人たちに救いがあるのであり,それは彼らにねたみを起こさせるためです。

パウロはその可能性を否定し、イスラエルの不信仰が神の計画の一部であり、それゆえに一時的なものであることを念頭に置いて説明を続けます。彼はイスラエルの過ちが絶望的なものではなく、むしろそれによって諸国民に救いが差し伸べられるという良い結果をもたらすものだったと述べます。「踏み外し」と訳されたギリシャ語paraptómaは「脱線」や「真理から外れること」を意味します。




11:11 断じてそのようなことはないように! しかし,彼らの踏み外しによって諸国の人たちに救いがあるのであり,それは彼らにねたみを起こさせるためです。

しかし神の計画は諸国民の救いで終わりません。今度はイスラエルの救いへとつながっていきます。もともと神の民であったイスラエルは、諸国民が神の恵みを受けるのを見てねたみの心を起こします。そしてその気持ちに刺激され、今度はイスラエル人たちも信仰による救いを求めるようになるというわけです。「ねたみを起こさせる」と訳されているギリシャ語parazéloóには「熱心にさせる」や「張り合わせる」などの意味が含まれます。




11:12 さて,彼らの踏み外しが世にとって富となり,彼らの減退が諸国の人たちにとって富となるのであれば,彼らの数のそろうことはなおのことそのようになるはずです。

イスラエルの失態さえも諸国民への恩恵という大収穫をもたらしたほどです。不信仰はもちろん神への罪ですから、イスラエルはそのことを認めなければなりません。しかし一方で神はその不信仰さえも利用し、それを諸国民の救いという「富」に変えていかれたのです。




11:12 さて,彼らの踏み外しが世にとって富となり,彼らの減退が諸国の人たちにとって富となるのであれば,彼らの数のそろうことはなおのことそのようになるはずです。

であればましてイスラエルが信仰を回復して救いに至ることは全人類にどれだけ絶大な祝福をもたらすでしょうか。神は最悪の状況からも最善の結果を創り出す方です。であれば最善の状況からはなおのことすばらしい結果を生み出されるに違いありません。パウロは救われるイスラエル人の数が満ちた時のことを想像し、興奮に心を弾ませます。