イスラエルへの憐れみ(ローマ11:25-31)
結局のところイスラエルが不従順に陥ることも、その不従順によって諸国民が救われることも、そしてその救いによってイスラエルがやがて救われるようになることも、すべては神の計画のうちにあることです。パウロは25-31節でそのことを明らかにします。
11:25 兄弟たち,あなた方がただ自分の目から見て思慮深い者とならないために,わたしはあなた方がこの神聖な奥義について無知でいることがないようにと願うのです。
パウロがオリーブの比喩を使って説明したのは、25節以降で述べる結論を導き出すためでした。その結論はパウロ自身の解釈ではなく神から啓示された「神聖な奥義」です。ギリシャ語mustérionは本来「人間の知識では理解できない秘められたこと」を意味しますが、聖書においては神の啓示によって人類に明らかにされた真理を指して用いられます。それでmustérionは「神聖な奥義」と訳されています。
11:25 兄弟たち,あなた方がただ自分の目から見て思慮深い者とならないために,わたしはあなた方がこの神聖な奥義について無知でいることがないようにと願うのです。
パウロが神聖な奥義を知らせるのは、ローマ会衆に属する諸国民の人たちが「自分の目から見て思慮深い者とならないため」です。この奥義を知らなければ誇りの心が生まれ、「自分が特別に神の恩恵を受けたのは自分に何か優れたものがあったからなのだ」などと思い上がることになりかねません。
11:25-26 すなわち,諸国の人たちが入って来てその人たちの数がそろうまで,感覚の鈍りがイスラエルに部分的に生じ,こうして全イスラエルが救われることです。
イスラエルが不信仰に陥ったことの本当の意義が明らかにされています。
確かにイスラエルの一部は神から離れています。彼らには「感覚の鈍り」が生じており、その無感覚さゆえに盲目になり、心が神の言葉に対して反応しない状態となっています。しかしこの状態は十分な数の諸国民が信仰に導かれる時までのことであって、永遠に続くわけではありません。
「数がそろうこと」と訳されたギリシャ語plérómaには「満ちること」という意味があります。「諸国の人たちの数がそろう」というのを「諸国民全員が救われる」という意味に解釈する説もありますが、この場合はむしろ「神の意志の中で定められた数の諸国民が全員救われる」という意味にとらえたほうがよいと思われます。
11:25-26 すなわち,諸国の人たちが入って来てその人たちの数がそろうまで,感覚の鈍りがイスラエルに部分的に生じ,こうして全イスラエルが救われることです。
諸国民の救いを目の当たりにしたイスラエルの心は信仰に向けて奮い立たされます。それで諸国民の救いが完成すると、今度は「全イスラエルが救われる」ことになります。パウロはイスラエル人がことごとく救われることを信じて疑いませんでした。イスラエルの不信仰は最終的に彼らが救われるようになるための段階にすぎないのです。
もちろんイスラエルの救いとは彼らがイエス・キリストを信じるようになることを指しています。一部の人が考えるようなイスラエル国家の復興を指しているわけではありません。イスラエルに関する聖書の預言を字句どおりに解釈すると国家復興説も一理あるように思えますが、その考えでいくとキリストの救いの良いたよりが無意味なものとなってしまいます。ヘブライ語聖書の預言はあくまで霊的に成就すると見るべきでしょう。
また「全イスラエル」をクリスチャン会衆ととらえる説もありますが、話の流れからしてその説には無理があります。9章以降「イスラエル」という言葉は明記されない限り生来のイスラエル民族を指して用いられているからです。
11:26-27 まさに書かれているとおりです。「救出者がシオンから出て,不敬虔な習わしをヤコブから遠ざける。そして,わたしが彼らの罪を取り去る時,これが彼らに対するわたしの契約である」。
全イスラエルの救いはイザヤ59章20-21節と同27章9節に予告されていました。
「ヤコブ」すなわちイスラエルの救出は、先に彼らの不敬虔と罪があり、次にそれらが取り去られ、最後に彼らに祝福が及ぶという段階を踏むこととなります。ですからイスラエルがいま不敬虔な状態にあるとしても、やがて彼らは必ず変化するのです。かつてイスラエル人は救出者であるイエス・キリストに敵対しましたが、結局は「シオン」すなわち神のもとから来るこの方によって救われることとなるに違いありません。
「ヤコブ」すなわちイスラエルの救出は、先に彼らの不敬虔と罪があり、次にそれらが取り去られ、最後に彼らに祝福が及ぶという段階を踏むこととなります。ですからイスラエルがいま不敬虔な状態にあるとしても、やがて彼らは必ず変化するのです。かつてイスラエル人は救出者であるイエス・キリストに敵対しましたが、結局は「シオン」すなわち神のもとから来るこの方によって救われることとなるに違いありません。
11:28 確かに,良いたよりについて言えば,彼らはあなた方の益のために敵となっていますが,神の選びについて言えば,彼らはその父祖たちの益のために愛されています。
「良いたよりについて言えば」、イスラエルは良いたよりを拒むことによって神と敵対していることを示しています。それによって諸国民には救いの益が及ぶこととなりました。
11:28 確かに,良いたよりについて言えば,彼らはあなた方の益のために敵となっていますが,神の選びについて言えば,彼らはその父祖たちの益のために愛されています。
しかし「神の選びについて言えば」、イスラエルは選ばれた民として神の寵愛を受け続けています。神は決してイスラエルをお捨てになりません。イスラエルの父祖であるアブラハムやイサクやヤコブを愛し、彼らと交わした約束を守るゆえです。
11:29 神の賜物と召しとは,神が悔やまれる事柄ではないからです。
神はイスラエルをご自分の民として召し、その聖なる身分にふさわしい種々の賜物を与えることとされました。そう決めた以上神は絶対にそれを守られます。神意を翻してイスラエルを忌み嫌うようになるということはありません。神は最初に与えた約束を後に後悔して取り消したりはなさらないのです。イスラエルに対する神の愛の根底にはこの原則があります。
11:30-31 あなた方がかつては神に不従順で,今は彼らの不従順のゆえに憐れみを受けているのと同じように,彼らがいま不従順になってあなた方に憐れみが及んでいても,それは彼ら自身も今や憐れみを受けるためなのです。
神はイスラエルの不従順を諸国民が救われる手段に変えられました。諸国民も以前は不従順でしたが、それでもイスラエルの失態を踏み台にして神の憐れみを受けるようになったのです。
11:30-31 あなた方がかつては神に不従順で,今は彼らの不従順のゆえに憐れみを受けているのと同じように,彼らがいま不従順になってあなた方に憐れみが及んでいても,それは彼ら自身も今や憐れみを受けるためなのです。
しかし神の知恵はそこで終わりません。今度は諸国民の救いをイスラエルが救われる手段として活用していかれます。いまは不信仰なイスラエルも諸国民が救いに召される様子を見て激励され、信仰を取り戻し、最終的には神の憐れみにあずかるのです。神は愛ゆえにすべてのことを救いの実現のために用いられるのです。
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