諸国民への憐れみ②(ローマ11:19-24)
11:19 ここであなたは言うでしょう,「わたしが接ぎ木されるために枝は折り取られたのだ」と。
諸国民のクリスチャンのうちのある人は次のように言ってユダヤ人に対する優越を主張するかもしれません。「イスラエル人の大半が切り捨てられたのは諸国民が迎え入れられるためだったのだ。要は神がそれだけわたしたちを重んじておられるということではないか」と。
11:20 そのとおりです! 彼らは信仰の欠如のゆえに折り取られ,一方あなたは信仰によって立っているのです。
パウロは上記の主張を一応認めています。確かに諸国民は神から格別の恵みを示されました。とはいえ実際にその恵みにあずかるのは信仰ゆえに義と認められた諸国の人たちです。そのようにして「信仰によって立っている」のであれば、思い上がるべきではありません。なぜなら信仰は本人が自分で獲得するものではなく神から与えられる賜物だからです。(コリント第一4:6-7、エフェソス2:8-9)
11:20 高ぶった考えを抱かず,むしろ恐れの気持ちでいなさい。
信仰はへりくだる心で受けるものです。信仰を与えられた人は恐れおののきつつ自分の救いをまっとうするよう努めなければなりません。(フィリピ2:12)
11:21 神が本来の枝を惜しまなかったのであれば,あなたを惜しまれることもないからです。
救われた諸国民が高ぶった考えを捨てるべきなのはなぜでしょうか。用心しなければ接がれた枝も神によって捨てられる危険があるからです。原木であるユダヤ人でさえ容赦なく折り取られたのであれば、どうして接ぎ木である諸国民に同じことが生じないといえるでしょうか。
11:22 それゆえ,神のご親切と厳しさとを見なさい。
神は「ご親切」と「厳しさ」という対照的な性質を有しておられます。この二つは場合に応じて適切に表されます。
11:22 倒れた者たちに対しては厳しさがあります。
不信仰のゆえに救いから落ちたイスラエルには、裁きという厳しさが臨みます。
11:22 一方あなたに対しては神のご親切があります。
信仰ゆえに罪を許された諸国民には、救いという親切が臨みます。
11:22 ただし,あなたがそのご親切のうちにとどまっていればのことです。
しかし神の親切を受け続けるためには常に信仰のうちに立っていることが必要です。神の愛と救いは不動ですが、神とわたしたちの関係はわたしたちの態度次第で常に変化するものです。わたしたちは自分の弱さと神の助けの必要性を知り、神の慈愛の中にとどまるよう常に励まなければなりません。
11:22 そうでないと,あなたも切り落とされることになります。
「神の選びは絶対であるため一度信仰に入れば永遠に滅びない」という考えは正しくありません。これは最終的な救いが神の絶対性と人間の不確実性の両方によって決まるものであるという事実を把握し損ねた結果生じる誤りです。クリスチャンが安心と自己満足に浸って「切り落とされる」ことのないよう注意するのは重要なことです。
11:23 また彼らも,信仰の欠如のうちにとどまっていなければ,接ぎ木されることになるのです。
一度切り捨てられたイスラエル人も、悔い改めるなら再びオリーブの幹に「接ぎ木される」ことになります。
11:23 神は彼らを再び接ぎ木することができるからです。
ある人は「何世紀もの間信仰から離れているユダヤ人がどうしていまさら神に立ち返るだろうか」と考えるかもしれません。人間的な観点では生じがたく思えるのも確かです。しかし神はイスラエルを再び生かす力をお持ちです。神はやがてユダヤ人の回復を通してご自身の栄光を表されるでしょう。ここにイスラエルの希望があります。
11:24 というのは,あなたが本来野生のオリーブの木から切り取られ,自然に反して園のオリーブの木に接ぎ木されたのであれば,まして,本来それに属するこれらのものは自らのオリーブの木に接ぎ木されるはずだからです。
パウロはこう言って諸国民には誇り高ぶることのないように警告しています。諸国民が神に選ばれたことは「自然に反する」ことであり、通常ならありえないことだからです。同時にユダヤ人に対しては絶望すべきでないことを教えています。諸国民を自然に反して接ぎ木した神が生来の枝を自然の状態に戻すことにやぶさかであられるはずはありません。
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