諸国民への憐れみ①(ローマ11:13-18)
パウロは13-24節でイスラエルの不信仰を諸国民がどう見なすべきかを教えます。17-24節にはオリーブの比喩が登場します。
11:13 そこで諸国の人たちに言います。
パウロはこれまで主にユダヤ人に向けて話してきましたが、ここで話の対象を諸国民の人たちに切り替えます。ローマ会衆の大部分は諸国民の人たちでした。
11:13 わたしは実際には諸国民への使徒なのですから,自分のこの奉仕の務めを栄光あるものとします。
パウロは「諸国民への使徒」として諸国を巡り、ユダヤ人でない多くの人々に熱心に伝道しました。彼は確かに使徒職を重んじ、それを光栄に思っていました。伝道者としての彼の熱心さがそれを裏打ちしています。
11:14 それは,何とかしてわたしの骨肉の者たちにねたみを起こさせて,その中から幾人かでも救えればと願うからです。
ユダヤ人の目にはパウロが祖国イスラエルを大切にしない者のように映ったかもしれませんが、決してそのようなことはありませんでした。諸国民に宣べ伝えるパウロの心にはだれよりも強い祖国への愛がありました。彼は諸国民への伝道によって神の過分の親切が諸国に波及し、その過分の親切が時を経てイスラエルに回帰し、それによってイスラエル人が少しでも多く救われる結果となることを切望していたのです。
11:15 というのは,彼らを捨て去ることが世にとって和解を意味するのであれば,彼らを迎え入れることは死からの命以外の何を意味するでしょうか。
イスラエルの離反は諸国民に良いたよりが伝えられるきっかけとなりました。こうして諸国民は神との平和な関係を得ました。これは世界における歴史的一大事です。
しかし上記のことが歴史的一大事というのであればどうでしょうか。神の民でありながら霊的に死んでいたイスラエルが再び神に受け入れられることは、なおのこと重大な出来事ではないでしょうか。イスラエルが信仰を得て神に受け入れられること、これはとりもなおさず「死からの命」、すなわち死者の復活に等しいのです。神にとっては格別の喜びであること間違いありません。
11:15 というのは,彼らを捨て去ることが世にとって和解を意味するのであれば,彼らを迎え入れることは死からの命以外の何を意味するでしょうか。
しかし上記のことが歴史的一大事というのであればどうでしょうか。神の民でありながら霊的に死んでいたイスラエルが再び神に受け入れられることは、なおのこと重大な出来事ではないでしょうか。イスラエルが信仰を得て神に受け入れられること、これはとりもなおさず「死からの命」、すなわち死者の復活に等しいのです。神にとっては格別の喜びであること間違いありません。
11:16 さらに,初穂として取られた部分が聖なるものであれば,その固まりもそうなのです。
パウロはユダヤ人が救われるという希望に胸を躍らせていますが、それがただの希望的観測ではない理由も述べています。その理由とは彼らがいまなお神の目に聖なる者であるということです。
不信仰なイスラエルがどうして聖なる者といえるのでしょうか。それは彼らが神聖な者とされた先祖たちの子孫だからです。パウロはこれを比喩で示しています。「初穂として取られた部分」はイスラエルの父祖を指します。アブラハムやイサクやヤコブは神によって聖別された人たちでした。「初穂として取られた部分」と訳されているギリシャ語aparchéは「初穂」や「最初のもの」を表します。「固まり」は父祖たちから生まれ出たイスラエル民族を指します。
古代イスラエルではパンを焼く前にその地で収穫したパン粉の最初の一塊(「初穂として取られた部分」)を神にささげて清め、それによって残りのパン粉で作られたパン全体(「固まり」)も清められたものと見なして食べるというしきたりがありました。(民数記15:17-21) これと同じように聖なる父祖たちから生まれた民も神の目には神聖なのです。
11:16 また,根が聖なるものであれば,枝もそうなのです。
根と枝の比喩も16節前半の比喩と同じ意味で、「根」はイスラエルの父祖を、「枝」はイスラエル民族を指します。
11:17-18 しかしながら,枝のうちのあるものが折り取られ,他方あなたが,野生のオリーブでありながらその枝に交じって接ぎ木され,そのオリーブの肥えた根にあずかる者となっていても,それらの枝に対して勝ち誇ってはなりません。
パウロは17-24節でユダヤ人と諸国民の関係をオリーブの比喩で説明していきます。オリーブの幹から「折り取られた枝」、これは不信仰なユダヤ人を表します。幹に「接ぎ木された野生のオリーブ」、これは信者となった諸国民を表します。
ちなみにオリーブの比喩に対しては、「通常は野生のオリーブを台木とし、培養された枝を接ぎ木するものではないか」という指摘があります。これはパウロが培養の台木に野生の枝を接ぎ木するという、通常の手法とは逆の情景を比喩として描写しているためです。ただしパウロはそういった詳細な点まで対応させる意図でこの例えを用いたわけありません。またまれにではあるものの野生の枝を接ぎ木して培養の台木を若返らせる手法も実際にあるそうです。
11:17-18 しかしながら,枝のうちのあるものが折り取られ,他方あなたが,野生のオリーブでありながらその枝に交じって接ぎ木され,そのオリーブの肥えた根にあずかる者となっていても,それらの枝に対して勝ち誇ってはなりません。
諸国民は不信仰なユダヤ人に代わって信仰に入り、ユダヤ人である信者たちと一緒に同じ根から運ばれてくる豊かな養分にあずかることができました。この「根」はアブラハムなどのイスラエルの父祖を指します。つまり諸国民はイスラエルの源流にあたる人々の信仰の恩恵にあずかるようになったということです。
11:17-18 しかしながら,枝のうちのあるものが折り取られ,他方あなたが,野生のオリーブでありながらその枝に交じって接ぎ木され,そのオリーブの肥えた根にあずかる者となっていても,それらの枝に対して勝ち誇ってはなりません。
諸国民はイスラエルに対して傲慢な態度に出るべきではありません。たとえイスラエルが不信仰な態度をとり続けていてもです。
11:18 しかし,たとえそれらに対して勝ち誇るとしても,あなたが根を支えているのではなく,根があなたを支えているのです。
もとを正せば諸国民の救いはユダヤ人の父祖たちという「根」の信仰の上に成り立っているのです。その逆ではありません。歴史を振り返ると、キリスト教徒にはユダヤ民族を迫害してきた過去がありますが、これは自分たちの救いがユダヤ人の先祖たちに支えられていることを無視してなされた過ちといわなければなりません。
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