残りの者①(ローマ11:1-6)
10章16-21節で述べられたとおりイスラエルの多くは不信仰に陥っています。しかし全員が不信仰に陥っているわけではありませんし、神も彼らを完全に捨てられたわけではありません。いまなお神は愛をもってイスラエルに救いの道を開いておられます。これが11章1-12節の要点です。
11:1 では,わたしは言います。神はご自分の民を退けられたわけではないでしょう。
異邦人に対する恵みとユダヤ人の不信仰について論じられた後ですので、このような反問が出るのも無理はありません。確かに神が「ご自分の民」であるはずイスラエルを見捨てられるとは考えにくいことです。
11:1 断じてそのようなことはないように! わたしもイスラエル人であり,アブラハムの胤の者,ベニヤミン部族の者だからです。
パウロは「神はイスラエルを捨てておられない」と答えます。「ご自分の民」という表現もイスラエルがいまなお神のもとにあることの証拠です。
神がご自分の民を見放しておられないことは、パウロ自身が救いに導かれた事実からも立証できます。実は彼も純粋なイスラエル人で、イスラエル十二部族の一つであるベニヤミン族の出身です。
11:2 神はご自分が最初に認めた民を退けたりはされませんでした。
神はイスラエルに目を向け、選び、寵愛されました。いまさら彼らを退けるようなことはされません。退けられているように見える中にも神の深い愛は働きつつあります。
11:2 あなた方は,エリヤに関して聖書が述べていることを知らないのでしょうか。
パウロはエリヤがアハブ王の妻イゼベルの前から逃亡した時の出来事を引き合いに出し、イスラエルが神に見捨てられていないことを説明します。
11:2-3 彼はイスラエルを責めて神に願い出ているのです。「エホバよ,彼らはあなたの預言者たちを殺し,あなたの祭壇を掘り起こし,私ひとりが残されました。それなのに彼らは私の魂を求めているのです」。
引用されているのは列王第一19章10,14節です。ここでエリヤはエホバに信仰を持つイスラエル人が自分しかいないように見えるという不安を吐露しています。他のイスラエル人たちといえば、「預言者たちを殺す」ことで神の裁きの言葉を封じ込め、「祭壇を掘り起こして」壊すことで真の崇拝を根絶しようとしていたのです。エリヤは「自分もいまや殺されようとしており、いまにも忠実なイスラエル人が全滅しそうだ」と考えます。彼が「神はもうイスラエルを見放されたのか」と思ったとしても無理はありませんでした。
11:4 しかし,神の宣言は彼に何と言うでしょうか。「わたしは自分のために男子七千人を残した。バアルにひざをかがめなかった者たちである」。
しかし実際はどうだったでしょうか。エリヤには全イスラエルが神から離れたように見えましたが、列王第一19章18節に記されているように神はご自分に忠実な者たちをまだ7,000人残しておられたのです。こうしてご自身の意図が引き続きイスラエルの上に働いていることをお示しになりました。この神の宣言によりエリヤはイスラエルへの神の愛がいかなる場合でも踏みにじられないことを理解したに違いありません。
補足ですが、引用された聖句では7,000人の忠実なイスラエル人たちが「バアルにひざをかがめなかった者たち」と紹介されています。「バアル」とはフェニキア人やカナン人などが崇拝していた神で、自然神または農業の神としてたてまつられていた存在です。この神がイスラエルの人々の信仰に悪影響を与えたと考えられています。バアルという語自体は「主」を意味する語で固有名詞ではありません。
11:5 それゆえ,これと同じようにして,今の時期にも,残りの者が過分のご親切による選びによって出て来たのです。
エリヤの時と同じく使徒たちの時代でもユダヤ人は不信仰を表しています。キリストを殺し、また神が選ばれた使徒やクリスチャンを迫害することによって不信仰の意思を表明しているのです。
しかし中には信仰を持つユダヤ人も少数ながらおり、この点もエリヤの時代と同様です。信仰ゆえに残されたユダヤ人は神の過分の親切によって選び出された者たちということができます。これが「残りの者」です。
皮肉なことに神の民の歴史では信仰を持つ者のほうが常に少数派でした。古代イスラエルにおいては、祭司やレビ人も含め国民の大多数が神に背いていました。信仰をもって神に従ったのは少数の預言者たちだったのです。イエスの時代においても同様で、影響力の大きいエルサレムの書士や祭司たちがメシアに反対し、ガリラヤ出身の弟子たちの一団がメシアを受け入れたにすぎませんでした。
11:6 さて,それが過分のご親切によるのであれば,それはもはや業にはよらないのです。
諸国民の救いが律法の業ではなく過分の親切に依存していることはもちろんです。それと同じようにユダヤ人たちも業ではなく過分の親切によって救われることを忘れてはなりません。残りの者であるユダヤ人たちも律法の行いに熱心であることが認められて神に選ばれるわけではないのです。
11:6 そうでなければ,過分のご親切はもはや過分のご親切ではなくなってしまいます。
神の選びを過分の親切と呼ぶためには、それが100パーセント神に依存する恩恵でなければなりません。さもなければそれは過分の親切と呼べません。もし選ばれることが人間側の功績に少しでも依存しているとしたら、その選びは過分の親切というより当然の報いということになります。
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