信仰によって救われる②(ローマ10:6-10)
10:6-7 しかし,信仰の結果である義はこのように語ります。「あなたの心の中で,『だれが天へ上るだろうか』と言っては,つまりキリストを引き下ろそうとしてはならない。また,『だれが底知れぬ深みへ下るだろうか』と言っては,つまりキリストを死人の中から引き上げようとしてはならない」。
「信仰による義」についてどうでしょうか。
まず信仰による義を受けるために求められていないことがあります。それは自力で義を獲得することです。律法はそのような努力を要求していましたが、信仰のほうは要求していないということです。なぜ要求されないかというと、そもそも信仰による義が人間の手で獲得するような性質のものではなく、ただ神の恵みによって与えられる性質のものだからです。
このこともヘブライ語聖書から立証できるでしょうか。パウロは申命記30章12-13節を根拠としてそれを巧みに立証しています。申命記30章12-13節は、律法の要求が決して過酷ではないということを説いた内容ですので、本来は信仰による義ではなく律法による義のことを述べたものと解されます。ところがパウロはこれがまさに信仰による義に最も当てはまることを見いだし、このモーセの言葉が本質的には信仰による義によって成就するものと理解しました。
さて、申命記30章12-13節は次の二つのことを言っています。
10:6-7 しかし,信仰の結果である義はこのように語ります。「あなたの心の中で,『だれが天へ上るだろうか』と言っては,つまりキリストを引き下ろそうとしてはならない。また,『だれが底知れぬ深みへ下るだろうか』と言っては,つまりキリストを死人の中から引き上げようとしてはならない」。
第一に信仰による義は、人間の手の届かない天の高みにあるものではありません。したがってはるばる天に上って取りに行く必要も、「だれが天へ上るだろうか」と思案する必要もありません。
なぜでしょうか。信仰による義に必要なものはすでに天からわたしたちのもとに送られているからです。つまりキリストがこの世に下って来てくださったからです。それでもなお「義を得るためには天を目指すような努力が必要だ」と主張する人がいるなら、それはキリストが天から来られたことを不十分だといっているも同然です。まるでもう一度キリストを引き下ろそうとでもしているかのようです。
10:6-7 しかし,信仰の結果である義はこのように語ります。「あなたの心の中で,『だれが天へ上るだろうか』と言っては,つまりキリストを引き下ろそうとしてはならない。また,『だれが底知れぬ深みへ下るだろうか』と言っては,つまりキリストを死人の中から引き上げようとしてはならない」。
第二に信仰による義は、死者の行く底知れぬ深みにあるものでもありません。したがって死を覚悟してそこに下って取りに行く必要も、「だれが底知れぬ深みへ下るだろうか」と思案する必要もありません。
理由はやはり神が底知れぬ深みであるハデスから信仰による義に必要なものを取り戻してくださったという点にあります。これはもちろんキリストが死人の中から復活させられたことを指します。ハデスに下ってキリストを死人の中から引き上げる権限など人間にはありませんが、どのみちそれを行う必要すらないということです。救いに必要なことは神がすべて成就してくださったからです。
申命記30章12-13節は神の要求が「天に昇る」ことでも「海の向こうに渡る」ことでもないと述べています。これがパウロの引用では「天へ上る」ことでも「底知れぬ深みへ下る」ことでもないという内容に変わっています。これは霊感を受けたパウロが引用元の言葉の趣旨を変えない範囲で自由に聖句をアレンジしたものと見ることができるでしょう。
申命記30章12-13節は神の要求が「天に昇る」ことでも「海の向こうに渡る」ことでもないと述べています。これがパウロの引用では「天へ上る」ことでも「底知れぬ深みへ下る」ことでもないという内容に変わっています。これは霊感を受けたパウロが引用元の言葉の趣旨を変えない範囲で自由に聖句をアレンジしたものと見ることができるでしょう。
10:8 では,それは何と言うのですか。「その言葉はあなたに近く,あなたの口の中,あなたの心の中にある」。
では信仰による義を受けるために求められていることとは何でしょうか。パウロは申命記30章14節を引用して説明を続けます。信仰による義において重要視されるのは外面的行為よりも内面的状態です。わたしたちは信仰による義の教えを初めから知っていたわけではなく、その教え、つまり良いたよりの言葉を聞いた結果知るようになりました。神はその言葉がわたしたちの内面でどう作用し、それが当人の「口」と「心」にどう働きかけるかをご覧になります。
10:8 つまり,信仰の「言葉」のことであり,わたしたちが宣べ伝えているものです。
申命記30章14節の「言葉」はもともとモーセが律法を指して述べたものですが、これも結果的には律法の言葉ではなく良いたよりの言葉を指すと考えるほうが適切だとパウロは解説しています。申命記30章12-13節を信仰による義に当てはめて解説したのと同様です。
10:9 その『あなたの口の中にある言葉』,つまり,イエスは主であるということを公に宣言し,神は彼を死人の中からよみがえらせたと心の中で信仰を働かせるなら,あなたは救われるのです。
信仰についての良いたよりが人の内面に作用を及ぼすと、当人の口と心に変化が生じます。
「口」からは「イエスは主である」という公の宣言が自然とほとばしり出ます。「イエスは主である」と公言することは、イエス・キリストが信仰の対象であり、救いの源であることを心から認めることにほかなりません。
「公に宣言する」と訳されているギリシャ語homologeóは字義的に「同じことを言う」を意味します。つまり同意しているという意思を言葉ではっきり言い表す行為を指す語で、「告白する」などとも訳される言葉です。
10:9 その『あなたの口の中にある言葉』,つまり,イエスは主であるということを公に宣言し,神は彼を死人の中からよみがえらせたと心の中で信仰を働かせるなら,あなたは救われるのです。
また「心」には神がイエスを復活させてくださったとの揺るぎない信仰が生まれます。これを信じることはイエスの復活によって自分が義とされたことを認め、もはや自分の力で救いを勝ち取ろうとしないことを意味します。
10:10 人は,義のために心で信仰を働かせ,救いのために口で公の宣言をするからです。
9節では信仰の告白である「口」が信仰そのものである「心」の前に置かれていましたが、これは8節で引用された申命記30章14節と順序を揃えるためです。もちろん正確な順序は「心で信仰を働かせ、口で公の宣言をする」ですから、パウロはここで順序を入れ替えて9節を言い直します。
本物の信仰は必ず公の宣言となって表明されるものであり、これによって神はわたしたちの救いを完成してくださいます。告白に至らない信仰は無力な信仰であり、信仰の伴わない告白は虚偽の告白です。
心の中で神とキリストを信じるだけでその信仰を堂々と示せないとしたら、それは真の信仰ではありません。人前で主イエスへの信仰を公言する者は御父の前でイエスから公に認めていただくことになりますが、反対に人前でイエスのことを恥じるなら、その者もまた御父の前でイエスから否認されることになります。(マタイ10:32-33) 逆にイエスを主と公言していても、それが口先だけなのであれば真の告白とはいえません。これもまたイエスに「主よ」とは言うけれど天の王国に入れない者と同様イエスに拒絶される結果となります。(マタイ7:21-23) この場合の問題は告白に信仰と生き方が伴っていないです。
信じることとそれを言い表すことはどちらも欠かすことができません。この二つこそが信仰による義を受けるための条件なのです。
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