主を呼び求める者は救われる②(ローマ10:14-15)





10:14 しかし人は,自分が信仰を持っていない者をどうして呼び求めるでしょうか。

主を呼び求めるという行動は至って単純であり、だれにでもできることです。とはいえ人がその行動に至るためには少なくとも四つのプロセスが必要です。




人が主を呼び求めるためにまず必要なのは、当人が「信仰を持つ」ことです。心から信仰を抱く相手に対してでなければどうして助けを求めようとするでしょうか。




10:14 また,自分が聞いたこともない者にどうして信仰を持つでしょうか。

また人が信仰を持つために必要なのは、当人が「聞く」ことです。確かに人がキリストについての良いたよりを知ることなくしてキリストに信仰を抱くことはありません。




10:14 また,宣べ伝える者がいなければ,どうして聞くでしょうか。

さらに人が聞くために必要なのは、そこに「宣べ伝える者がいる」ことです。使徒をはじめとする宣教者たちの伝道があったからこそわたしたちは良いたよりに出会うことができました。




10:15 また,遣わされたのでなければ,どうして宣べ伝えるでしょうか。

しかし最も重要なのは、宣べ伝えるよう神が使徒たちを「遣わされた」ということです。いまこうしてわたしたちが主を呼び求めることができているのは、それによって救われるという良いたよりを神が宣教者たちを通して啓示してくださったからなのです。




10:15 「良い事柄についての良いたよりを宣明する者の足は何と麗しいのだろう」と書かれているとおりです。

主を呼び求めるためのプロセスの三番目は「宣べ伝える者がいる」ことでした。つまり宣教者たちの働きがあってこそ人々は主の名を呼び求めることができるのです。パウロたちの宣教は決してユダヤ人たちを不幸にさせるための活動ではありませんでした。よって迫害される理由はどこにもありませんでした。そこでパウロはイザヤ527節を引用し、宣教者の働きの価値と重要性を訴えています。

このイザヤの言葉はイスラエルが捕囚から解放されて母国に帰還し、神の支配が復興することを預言したものであって、「良い事柄についての良いたよりを宣明する者」というのもイスラエルの回復をふれ告げる人を指したものといえます。とはいえこの預言はイスラエル王国に完全に成就したわけではありませんでした。特に神の支配の復興は天の王国において完全に成就します。そのためパウロはイザヤの預言が依然として成就の途上にあると考えました。そして「良い事柄についての良いたよりを宣明する者」を自分たちに当てはめ、この聖句を使徒の働きの麗しさを強調したものと見なしました。

宣教とは聖霊によって清められる人々を父なる神のもとに招く働きにほかなりません。神がキリストによって人類の罪を許し、人類と和解してくださったことを告げるのが宣教者の務めです。宣教者として神から遣わされる者はこの上なく幸いです。これよりも栄誉ある務めは考えられません。