主を呼び求める者は救われる①(ローマ10:11-13)
パウロは信じる者が救われるという真理を11-15節で強調します。
10:11 聖書は,「彼に信仰を置く者はだれも失望させられない」と言っています。
1-10節をまとめると、律法による義(古い契約)が律法の実行を要求しているのに対し、信仰による義(新しい契約)はキリストへの信仰を要求しているということになります。信仰による義を受けるために必要なものは神が備えてくださったのであり、わたしたちはただ信じてそれを告白することで救われるということでした。
とはいえ「本当に信仰一つで救われるのだろうか」という疑問もあるでしょう。パウロはイザヤ28章16節を引用し、確かに信仰こそが救いの条件であることを示します。このイザヤの言葉は9章33節でも用いられていました。そこで明らかにされていたとおりイザヤは「つまずきの石」に信仰を置くことの重要性を説いていましたが、この石はイエス・キリストのことでした。救いの希望を失ってよろめくことがないのはキリストに信仰を置く人です。神がキリストの贖いによってその人の罪を許されるからです。
10:12 ユダヤ人とギリシャ人の間に差別はないからです。
信じる者が「だれも」失望させられないと書いてあるのは、救いの条件があくまで信仰だからです。信仰とは別に律法の業が必要だとか、信仰以外にもユダヤ人であることが必要だとか、そういう条件が一切ないのです。
生来のユダヤ人と非ユダヤ人を区別する思想は律法によって生まれました。ただしその律法もキリストによって終わったのですから、当然ユダヤ人と非ユダヤ人を隔てる障壁も撤廃されたわけです。これで両者とも身分で差別されることなく信仰によって神の過分の親切を受け、救いにあずかることができるようになりました。
ユダヤ人もギリシャ人も対等であるという考え方はクリスチャン・ギリシャ語聖書で度々強調されている点です。どちらも信仰によってキリスト・イエスと結ばれ、(ガラテア3:26-29) どちらも同じ霊を与えられ、(コリント第一12:12-13)
どちらも一つの体として築き上げられて父なる神に近づき、(エフェソス2:13-22) どちらも新しい人格を身に着けていくことができるといわれています。(コロサイ3:9-11) 自分の身分を理由に主を信じることをためらう必要はまったくありません。
10:12 すべての者の上に同じ主がおられ,この方はご自分を呼び求めるすべての者に対して豊かなのです。
キリストはユダヤ人だけでなくギリシャ人の主でもあります。またギリシャ人にとどまらず実に「すべての者」の主であられます。ユダヤ人が救い主を独占することはできませんし、救い主がユダヤ人だけをえこひいきされることもありません。諸国民が「せっかく主を信じたのにユダヤ人でないという理由で救われなかった」というような失望を経験することはないのです。だれであれご自分を主と信じる者がいるなら、キリストはその無尽蔵の過分の親切を豊かに与えてくださることでしょう。
わたしたちが行うべきなのは主イエス・キリストをあがめ、その名を呼び求めることです。「呼び求める」とはもとのギリシャ語epikaleóの意味のとおり「呼びかける」ことです。わたしたちは実際に主イエス・キリストに向かって「主よ」と呼びかけ、救いや恩恵や執り成しを願い求めなければなりません。こうして主を呼び求める者をみなキリストは豊かに恵んで救ってくださるのです。
10:13 「エホバの名を呼び求める者はみな救われる」のです。
自分たちだけが救いにあずかると信じていたユダヤ人たちはきっとこう反論したでしょう。「聖書のどこに主を呼び求める人がだれでも救われるなどと書いてあるのか」と。パウロはこの真理を決定的に裏付ける聖句をヘブライ語聖書から引用し、ユダヤ人の偏見を打破します。引用されたのはヨエル2章32節です。
新世界訳はヨエル書の引用文を「エホバの名を呼び求める者はみな救われる」と訳していますが、これは誤りです。ギリシャ語原文でこの箇所は「エホバの名」ではなく「主の名」となっているからです。11節からの文脈を考慮する限りパウロは明らかにイエス・キリストを念頭に置いてヨエルの言葉を引用していますから、この部分を「エホバの名」と訳した場合、このエホバとはキリストを指しているという見解に同意せざるをえなくなります。
とはいえ「しかしもともとのヨエル2章32節のヘブライ語原文には『エホバの名を呼び求める者はみな安全に逃れる』と書いてあったのではないか」という質問も生じることでしょう。それは確かにそのとおりです。引用元のヨエルの言葉は確かに「エホバの名」となっています。しかしヨエル書を含むヘブライ語聖書が紀元前3-2世紀にギリシャ語に翻訳された際に「YHWH(新世界訳で『エホバ』と訳されている神聖四文字)」はほぼ「主」に置き換えられました。このギリシャ語に翻訳されたヘブライ語聖書を七十人訳聖書といいます。パウロをはじめとするクリスチャン・ギリシャ語聖書の著者たちは、ヘブライ語聖書から聖句を引用する場合にこの七十人訳聖書を使用しました。ヨエル2章32節の場合も例外ではありません。そのためヨエルが書いた「エホバの名を呼び求める者はみな安全に逃れる」という言葉も、パウロの引用では「主の名を呼び求める者はみな救われる」となっているわけです。
新世界訳はヨエル書の引用文を「エホバの名を呼び求める者はみな救われる」と訳していますが、これは誤りです。ギリシャ語原文でこの箇所は「エホバの名」ではなく「主の名」となっているからです。11節からの文脈を考慮する限りパウロは明らかにイエス・キリストを念頭に置いてヨエルの言葉を引用していますから、この部分を「エホバの名」と訳した場合、このエホバとはキリストを指しているという見解に同意せざるをえなくなります。
とはいえ「しかしもともとのヨエル2章32節のヘブライ語原文には『エホバの名を呼び求める者はみな安全に逃れる』と書いてあったのではないか」という質問も生じることでしょう。それは確かにそのとおりです。引用元のヨエルの言葉は確かに「エホバの名」となっています。しかしヨエル書を含むヘブライ語聖書が紀元前3-2世紀にギリシャ語に翻訳された際に「YHWH(新世界訳で『エホバ』と訳されている神聖四文字)」はほぼ「主」に置き換えられました。このギリシャ語に翻訳されたヘブライ語聖書を七十人訳聖書といいます。パウロをはじめとするクリスチャン・ギリシャ語聖書の著者たちは、ヘブライ語聖書から聖句を引用する場合にこの七十人訳聖書を使用しました。ヨエル2章32節の場合も例外ではありません。そのためヨエルが書いた「エホバの名を呼び求める者はみな安全に逃れる」という言葉も、パウロの引用では「主の名を呼び求める者はみな救われる」となっているわけです。
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