信仰によって救われる①(ローマ10:1-5)





イスラエルが救いにあずかることのできなかった原因を知ると、逆に救われるために必要なことが何かを学ぶことができます。10章でパウロはヘブライ語聖書を引用しつつ救われるためにわたしたちに要求されていることが何かを明らかにします。5節で律法(古い契約)の要求事項を思い起こさせ、その後の6-10節で良いたより(新しい契約)の要求事項を示しています。

さらに6-10節を細かく見ていくと、6-7節では良いたよりがわたしたちに要求していないこと、8-10節ではその反対にわたしたちに要求していることが示されています。




10:1 兄弟たち,わたしの心の善意と,彼らのために神にささげる祈願は,彼らの救いのためにほかなりません。

パウロはイスラエル人たちに「兄弟たち」と呼びかけます。イスラエルの不信仰とその裁きを述べつつも彼の心は同胞に対する愛で満ちています。

それだけでなくパウロは自分を迫害するイスラエルのために、良いたよりを拒むイスラエルのために熱烈な祈願をささげています。もし神がイスラエルの滅びをすでに確定しておられたのであれば、パウロはもはや「彼らの救いのために」祈ったりはしなかったでしょう。彼らに救われる余地があったからこその祈願です。




10:2 わたしは,彼らが神に対する熱心さを抱いていることを証しするのです。

イスラエル人が律法の儀式と形式を守ることに熱心だったことは疑念の余地がありません。加えてイスラエル人は先祖から言い伝えられた細則を守る点でもひたむきでした。彼らにとっては律法の順守こそが神への熱き専心のしるしでした。




10:2 しかし,それは正確な知識によるものではありません。

とはいえイスラエル人は重要な真理を見過ごしていました。「律法の役割はあくまで人をキリストへの信仰に導くこと」という真理です。(ガラテア3:23-25) そうである以上彼らは律法そのものではなく律法によって信仰に導かれることに重きを置くべきでした。それなのにイスラエル人はこれを悟らず、律法を守ることに専念したのです。これこそ彼らの熱心が「正確な知識によるものではない」といわれている理由です。

「正確な知識」と訳されたギリシャ語epignósisは単なる知識以上のもので、「物事の真相を見抜く洞察力」のような意味があります。

知識の伴わない熱心さは人を自己満足に陥らせ、高慢にならせます。またこの熱心さによって救われるかのような錯覚を引き起こします。この種の熱心は律法主義というもので、良いたよりの考え方とは正反対のものです。わたしたちは義に至る点で自分が完全に無力であるという事実を深く熟考しなければなりません。そして神が全能の力によって成し遂げてくださる救いだけを従順に受け入れる必要があります。これがわたしたちの得るべき「正確な知識」です。この知識が欠けた熱心は無駄ですが、この知識に立脚して示される熱心はかえって良いものとなります。




10:3 彼らは神の義を知らないで,自分たち自身の義を確立しようと努めたために,神の義に服さなかったからです。

神は独り子を杭につけることによって人類の罪を許し、それに信仰を持つ者を義と宣言してくださいます。わたしたちに与えられるこの神の恵みのことを「神の義」といいます。一方「自分たち自身の義」とは、律法を守ることにより人が自分の力で勝ち得る義のことです。

神の義という道が開かれたにもかかわらずユダヤ人はそれに従いませんでした。律法を守って自力で義を獲得する道に固執したのです。自力で義を勝ち取ることは自分自身の誇りとなりますが、神の義に服することは自分の無力を認めることになります。これまで律法による義の追求に励んできた彼らには自己の業に対する誇りがありました。この誇りに妨げられて神の意志に服従しえなかったのです。






10:4 キリストは律法の終わりであり,こうして,信仰を働かせる者はみな義を得るのです。

律法の能力には限界があります。83節にあるとおり人を義として命に至らせることができなかったのです。よって律法には終わりが来なければなりません。その終わりは約束の胤であるイエス・キリストが地に来られた時に訪れました。(ガラテア3:19) キリストは律法の目的を完全に成就し、律法の役目を完了させられました。そして信仰を持つ者がご自身の贖いにより一人残らず義とされ、命に至るようにされたのです。この事実を無視して律法を守り続けるのは愚かなことです。




10:5 モーセは,律法の義を行なった人はそれによって生きる,と書いています。

パウロは5節で「律法による義」を得るために必要だったことを論じ、6-10節で「信仰による義」を得るために必要なことを論じます。まず「律法による義」についてです。




律法による義を獲得する条件は律法を自力で行う努力です。ここに引用されたレビ記185節がまさにそのことを示しています。「行う」という条件からわかるように律法が人に要求していたのは外面的行為でした。律法を行うこと自体は別に悪いことではないのですが、イスラエル人の場合は、その条件ゆえに行為と形式を過度に重んじるパリサイ主義的な熱心さに傾いてしまうという弊害が起こりました。

いずれにせよ人間は罪に支配されているため律法を完璧に実行することができません。そのため律法による方法で義と命に至ることはできません。