肉と霊②(ローマ8:5-11)





8:5 肉にしたがう者は自分の思いを肉の事柄に向けるのに対し,霊にしたがう者は霊の事柄に向けるからです。

ここからは肉に従う者と霊に従う者の対比となっています。




クリスチャンの中には肉と霊の絶え間ない戦いがあります。

「肉」はわたしたちを絶えず罪に誘います。そして肉に従う者は「肉の事柄」、すなわち人間の本能的な欲求を満たすことを常に欲して行動します。クリスチャンであっても肉の性質は依然として自分の体に働いていますから、わたしたちはこれを杭につけて死んだものとして取り扱わなければなりません。(ガラテア5:16-24




8:5 肉にしたがう者は自分の思いを肉の事柄に向けるのに対し,霊にしたがう者は霊の事柄に向けるからです。

「霊」はわたしたちを神の意志に従わせようとします。そして霊に従う者は「霊の事柄」、すなわち神の霊が喜び、良しとすることを常に念頭に置いて行動します。

肉に従う者と霊に従う者の行動が根本的に違うのはそれぞれの思いの方向性が真逆だからです。「思い」と訳されたギリシャ語phronémaは「心を向ける事柄」や「常に心にかけている事柄」を表します。




8:6 肉の思うことは死を意味するのに対し,霊の思うことは命と平和を意味するのです。

思いは行動につながり、行動は結果につながります。思いが正反対であれば、行動だけでなく結果も正反対となります。

「肉の思うこと」はパウロが724節で言ったとおり現に死んだ状態をもたらします。暗くて不安定で無力で絶望的な状態がそれです。そのうえ肉に従う者の将来には永遠の死が待ち受けています。




8:6 肉の思うことは死を意味するのに対し,霊の思うことは命と平和を意味するのです。

「霊の思うこと」はそれと対照的に現に命ある状態をもたらします。霊に従う者の現在は明るく、安定しており、力と希望に満ちています。さらにその生ける状態は将来の永遠の命によって完成されます。

霊の思いは命に加えて平和でもあります。善を願う心と神の霊の導きが一致するゆえに霊に従う者の内面には調和と安らぎが生まれます。

8章にはことのほか多く「霊」という語が登場しますので、この語の意味を正確に把握しておくことが重要となります。まず「霊」は神の霊である聖霊を指すというのが原則です。聖霊は神またはキリストから送り出される存在であり、人間のうちに宿ることも人間の外で働くこともあります。ただし複数ではなく唯一の存在です。

箇所によっては「霊」が人間の精神や心を指すものととらえられる場合もあり、それが原因で解釈上の困難が生じたりもしていますが、8章に限っていえば「霊」は概して神から出る聖霊を指していると考えられます。ただし16節は例外ですので、その箇所で詳述することにします。

人間は生まれながらに神の霊を持っているわけではありません。聖霊はキリストを信じて新しい命によみがえらされた者に与えられる神からの賜物なのです。




8:7 肉の思うことは神との敵対を意味するからです。

霊の思いは平和ですが、肉の思いは違います。肉を追い求める者は自分が神と敵対関係にあることを明らかにしています。神と敵対している限り肉に従う者に平安はありません。




8:7 それは神の律法に服従しておらず,また,現に服従しえないのです。

肉は罪の支配下にありますから、神に服従する意思を持たないのはもちろんのことそもそも服従すること自体が不可能です。




8:8 それで,肉と和している者は神を喜ばせることができません。

肉に属する者は自分の欲求を優先させるため生き方が本質的に神の考えと相いれません。そのため神を喜ばせることができません。たとえ一時的に良いことを行うとしてもです。

「肉と和している者」、これは肉的な状態に満足しきってそこにとどまる者を指します。度合いでいえば「肉に従う者」以上に肉的です。




8:9 しかし,神の霊があなた方のうちに真に宿っているなら,あなた方は,肉とではなく,霊と和しているのです。

5-8節と異なり9-11節には「あなた方」という言葉が入っています。5-8節が肉と霊に関する一般原則を示しているのに対し、9-11節はそれを適用して自己評価するよう各自に促している箇所といえるでしょう。

肉に従う者は神の敵ですが、クリスチャンとして生活する人のうちに神の聖霊が宿っているなら、その人は霊に属する人です。




8:9 けれども,キリストの霊を持たない人がいれば,その人は彼に属する者ではありません。

真のクリスチャンでありながら肉に属することはできません。同じように「キリストの霊」すなわち聖霊を持たないのに真のクリスチャンであるということはありえません。キリストの霊を宿していない以上その人は肉に従うしかできないはずであり、それゆえに平安を失い、有罪と死の宣告を受けているはずです。




8:10 しかし,キリストがあなた方と結びついているなら,体は罪のゆえに確かに死んでいるとしても,霊は義のゆえに命となっているのです。

この「キリストがあなた方と結びついているなら」という言葉も、1節で注解したのと同じ理由で「キリストがあなた方のうちにおられるなら」と訳すのが妥当でしょう。

人間はアダムの罪ゆえに神から見て死んでおり、肉体的にも死を避けられない生き物です。しかしキリストの霊を持つ者、すなわちキリストとの交わりの中にある者は死ぬことなく命を持つことになります。なぜならキリストが義なる方であり、永遠の命そのものであり、神がキリストの霊を持つわたしたちにキリストの義の恩恵を分け与えてくださるからです。




8:11 そして,イエスを死人の中からよみがえらせた方の霊があなた方のうちに宿っているのなら,キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたその方は,あなた方のうちに住むご自分の霊によって,あなた方の死ぬべき体をも生かしてくださるのです。

「イエスを死人の中からよみがえらせた方」とはもちろん父なる神です。命の根源である神は思いのままに人を生かす力を有しており、その力でイエスを復活させられました。それゆえ無限の力を持つ神の霊を宿しているクリスチャンは、この霊が死に至る体にさえも命を与えてよみがえらせてくれることを確信できます。

ところで9節には「神の霊」や「キリストの霊」、11節には「イエスを死人の中からよみがえらせた方の霊」などの表現が出てきていました。これらはすべて聖霊を指す言い回しと考えて問題ありません。神はイエスを復活させた方ですし、その方の霊はキリストの霊と同一視できるものであり、それが聖霊そのものでもあるためです。

さらに言うと9節や11節が述べていた「神の霊が自分のうちに宿っている」状態は、10節で「キリストが自分のうちにおられる」状態と言い換えられています。




こうして考えると、パウロが神の啓示と霊的な体験によって神とキリストと聖霊の関係性をどうとらえていたのかがある程度推察できます。