クリスチャンのうめき(ローマ8:23-25)
23-25節にはクリスチャンのうめきとその理由が記されています。
8:23 それだけではありません。初穂としての霊を持つわたしたち自身も,そうです,わたしたち自身が,自らの内でうめきつつ,養子縁組を,すなわち,贖いによって自分の体から解き放されることを切に待っているのです。
すでに聖霊を受けているわたしたちも、創造物と同様にうめきと苦しみを抱えています。なぜでしょうか。霊は宿っていても体が不完全であるため自分のうちに依然として肉と霊の戦いが絶えないからです。ゆえにクリスチャンであっても決してうめきがないわけではありません。むしろ創造物以上に抑えがたいうめきを感じて主イエス・キリストの再臨を待ち望んでいるのです。
ここでパウロはわたしたちの持つ神の霊のことを「初穂としての霊」と表現しています。クリスチャンが神から聖霊をいただいているのは確かですが、それでも聖霊のすべてをいただいているわけではありません。聖霊は無限の存在ですから、その恩恵を余すところなく受けるにはいくら時間があっても足りません。もっとも神は来たるべき永遠の王国においてわたしたちに尽きることなく聖霊を与えてくださるに違いありませんが、いまの世でクリスチャンが受けている聖霊は、すでに豊かとはいえまだ「初穂」、すなわち収穫物の初物にあたる少しの部分にすぎないということなのです。
8:23 それだけではありません。初穂としての霊を持つわたしたち自身も,そうです,わたしたち自身が,自らの内でうめきつつ,養子縁組を,すなわち,贖いによって自分の体から解き放されることを切に待っているのです。
クリスチャンはキリストの到来を待ち望んでいるとのことでしたが、待ち望む思いの強さは「切に待つ」という言葉で表現されています。これは「家から出て人を迎える」という意味のギリシャ語apekdechomaiを訳したものです。キリストの到来を強く待ち焦がれるわたしたちの気持ちが的確に表現されています。
19節で学習しましたが、創造物の待ち望む度合いはapokaradokiaというギリシャ語で表されていました。一方クリスチャンの待ち望む度合いはapekdechomaiという語で表されています。異なる語が用いられていますが、思いの強さを表現する点ではどちらも同じです。
クリスチャンがキリストの到来を心待ちにするのには理由があります。次に挙げる二つの栄光ある状態がその日に実現するからです。
8:23 それだけではありません。初穂としての霊を持つわたしたち自身も,そうです,わたしたち自身が,自らの内でうめきつつ,養子縁組を,すなわち,贖いによって自分の体から解き放されることを切に待っているのです。
一つ目は「養子縁組」です。つまり養子として迎えられ、神の子とされることです。
14-16節ではいますでにわたしたちが神の子の身分をいただいていることが書かれていました。しかしながらこれは内面的な意味においてのみ神の子の身分にあるということです。クリスチャンは聖霊に基づく内面的自覚において自分が神の子とされていることを確信していますが、それでも外面は依然として罪深い肉体のままです。
いまはまだ養子縁組の途上にいるわたしたちですが、やがて完全に神の子とされる時が来ます。それこそがクリスチャンの待ち望むべきキリストの来臨の時なのです。
8:23 それだけではありません。初穂としての霊を持つわたしたち自身も,そうです,わたしたち自身が,自らの内でうめきつつ,養子縁組を,すなわち,贖いによって自分の体から解き放されることを切に待っているのです。
二つ目は「贖いによって自分の体から解き放されること」です。
キリストの来臨の日にはクリスチャンの体に変化が生じます。すでに死んだクリスチャンは復活することにより、また現に生きているクリスチャンは瞬時に変えられることにより新しい霊の体を持つこととなります。(コリント第一15:42-53、テサロニケ第一4:15-17)
現在のわたしたちの肉体は滅びと腐朽に向かう性質を帯びています。そのためこのままではやがて死に、腐敗し、無となります。それでもこの体はキリストが来られる日に贖い出され、朽ちることのない性質、永遠の栄光にふさわしい性質に変化させられるのです。
8:24 わたしたちはこの希望のもとに救われたからです。
クリスチャンはうめきながらも終わりの日に救いが完成されるという希望を強く持っており、そこから救いと慰めを得ます。
救われた状態は希望ですが、救いの原因はあくまで信仰です。そのため24節を「希望ゆえに救われた」ではなく「希望のもとに救われた」と翻訳したのは正解です。要は「クリスチャンは希望に生きる者として救われた」ということです。
8:24 しかし,見えている希望は希望ではありません。
現に見えているものや現に自分が所有しているものは希望の対象となりえません。
8:24 というのは,その事柄が見えるとき,人はそれに対して希望を抱くでしょうか。
すでに現実化した物事に望みを抱く必要はないからです。希望はまだ見ぬ未来に自分のものとなるはずの物事に対して抱くものです。クリスチャンの救いは本人の内面においてすでに実現していますが、外面的な部分も含めた救いの成就はなお将来に控えています。そのためクリスチャンの救いは希望の対象となります。
8:25 しかし,見ていないものに希望を抱くのであれば,わたしたちは忍耐してそれを待ちつづけるのです。
キリストが来られる時に完成する救いはまだ実現していませんし、いま肉眼で確認することもできません。それでもクリスチャンはそれに希望を抱き、一日千秋の思いでその日を待ちます。この輝く希望に支えられているためクリスチャンはあらゆる苦難に耐え、あらゆる不完全さを忍ぶことができます。
最新の投稿
賛美(ローマ16:25-27)
雄大無比の賛美文によってローマ書が締めくくられます。この賛美の中には ローマ書全体の主要な考えがすべて含まれています。 25-27 節はギリシャ語原文上でも難解で、翻訳も困難を極める箇所ですが、分解しながら考察することにより以下の主要な事実を読み取ることができま...
