創造物のうめき(ローマ8:18-22)
17節にはクリスチャンがキリストともに栄光を受けることが書かれてありました。この栄光が救われた者に与えられる祝福の最終段階であり、18-39節はこの点を論じています。
とはいえ17節はクリスチャンが栄光の前に受ける苦しみについても言及していました。そこでパウロはこの苦しみの理由となる事情をまず説明します。それが18-27節です。パウロはこの部分の説明を「うめき」という言葉を軸にして展開していきます。18-22節には創造物のうめき、23-25節にはクリスチャンのうめき、26-27節には聖霊のうめきが説明されています。
とはいえ17節はクリスチャンが栄光の前に受ける苦しみについても言及していました。そこでパウロはこの苦しみの理由となる事情をまず説明します。それが18-27節です。パウロはこの部分の説明を「うめき」という言葉を軸にして展開していきます。18-22節には創造物のうめき、23-25節にはクリスチャンのうめき、26-27節には聖霊のうめきが説明されています。
8:18 それゆえ,今の時期のいろいろな苦しみは,わたしたちのうちに表わし示されようとしている栄光に比べれば,取るに足りないものとわたしは考えます。
「今の時期」、すなわちイエス・キリストが到来されるまでの期間は天と地のすべてのものがこぞって苦しみの中にありますが、キリストが到来される時には、死者の復活や天地の回復が実現し、これによってキリストは神の業とその栄光を表されます。
パウロは現在と将来を比較し、将来の栄光に比べれば現在の苦しみも大した問題ではないと説きます。
8:19 創造物は切なる期待を抱いて神の子たちの表わし示されることを待っているのです。
19-22節には創造物のうめきとその理由が記されています。
先にこの「創造物」とは何かを明らかにしておきましょう。クリスチャン・ギリシャ語聖書においてギリシャ語ktisisは、文脈により「人類」を指す場合、「人類以外の被造物」を指す場合、そして「すべての被造物」を指す場合があります。19-22節ではktisisが「創造物」と訳されていますが、具体的に何を指すかは見解が分かれるところです。
ただし23-25節ではクリスチャンのうめきのことが論じられていますので、まず創造物のうちクリスチャンたちは除外されます。次にみ使いたちも除外されるでしょう。彼らは現在苦しみのうちにあるわけではないからです。さらに悪霊たちやクリスチャン以外の人たち、彼らも救いを待ち望んでいるとはいえないため除外されます。すると残るのは地上にいる人間以外の被造物、つまりわたしたちが「自然界」と呼んでいるものです。
創造物がいま待ち望んでいるのは「神の子たちの表わし示されること」です。
キリストが栄光の輝きのうちに来臨される時には、クリスチャンたちも何らかの仕方でともに現れることになっており、(コロサイ3:4) その時には人類の救いと自然界の回復が実現することとなります。それゆえ創造物はいよいよ切実に新しい天と新しい地の復興、そして栄光を受けた神の子たちの支配を待ち望んでいるのです。
キリストが栄光の輝きのうちに来臨される時には、クリスチャンたちも何らかの仕方でともに現れることになっており、(コロサイ3:4) その時には人類の救いと自然界の回復が実現することとなります。それゆえ創造物はいよいよ切実に新しい天と新しい地の復興、そして栄光を受けた神の子たちの支配を待ち望んでいるのです。
もちろん意思を持たない生物や無生物が何かを待ち望むということはできませんので、この箇所は比喩で語られていると見なすべきです。ただこの比喩表現には創造物に対するパウロの深い洞察が反映されています。ヘブライ語聖書にも神の救いによって起こる動物たちの美しい変化や天地の一新が預言されていますが、(イザヤ11:6-9、イザヤ65:17) 仮に自然界に意思があれば、自分たちに生じる変化を心から待ち望むに違いありません。
待ち望む思いの強さに関しては「切なる期待を抱いて」とあります。この語はギリシャ語apokaradokiaを訳したもので、「首を伸ばして」を意味しています。創造物の切望の度合いをよく表しています。
8:20 創造物は虚無に服させられましたが,それは自らの意志によるのではなく,服させた方によるのであり,それはこの希望に基づいていたからです。
ヘブライ語聖書はアダムの罪のために地が呪われたことを教えています。(創世記3:17-19) 神は自然界を従わせるべき者として人類を創造されましたが、(創世記1:26-28) その人類が不従順となった結果神は人類とともに自然界も呪いの下に置かれたのです。それ以来自然環境は破壊と滅亡に向かってどんどん進んでいます。この状況をパウロは「虚無」と言っています。
「虚無」と訳されたギリシャ語mataiotésは「結果を実らせることのできない状態」を指します。自然界の本来の役割はそのすばらしさによって創造者に栄光を帰すことのはずでした。ところが現時点で自然界はその結果を実らせることができていません。滅びに向かう定めの中にあるからです。まさに虚無ともいうべきむなしい状態、あるべき姿からかけ離れてしまった状態です。
8:20 創造物は虚無に服させられましたが,それは自らの意志によるのではなく,服させた方によるのであり,それはこの希望に基づいていたからです。
もっとも被造物自身が好んで悲劇への道を選んだのではありません。意図して虚無に「服させた方」がいます。神です。
神はアダムが反逆した時に彼の罪、そして人類の罪を裁かれましたが、その際自然界も必然的に人類の罪の結果を被るようにされました。
8:20 創造物は虚無に服させられましたが,それは自らの意志によるのではなく,服させた方によるのであり,それはこの希望に基づいていたからです。
創造物が虚無に服すことは神によって定められたことですが、実はここに希望があります。なぜでしょうか。すべてを意のままに救済しうる神が虚無に服させられたのであれば、その方が全能の力で創造物を回復させるという可能性も十分にあるからです。
8:21 すなわち,創造物そのものが腐朽への奴隷状態から自由にされ,神の子供の栄光ある自由を持つようになることです。
そしてそれが単なる可能性ではなく神の確かな計画であることが21節に明言されています。
神は創造物が滅亡に向かうようにされましたが、やがては創造物が回復し、神の子供にふさわしい状態を取り戻すことをその時すでに計画に含めておられたのです。その計画の内容は「奴隷状態」から「自由」へという目覚ましい変化であり、「腐朽」から始まり「栄光」に至るという前途の明るいシナリオなのです。
8:22 わたしたちが知るとおり,創造物すべては今に至るまで共にうめき,共に苦痛を抱いているのです。
自然は美しいものですが、その美しさの中には深刻な不完全さがあります。アダムが堕落した日に人類のみならず自然界の上にも呪いが下され、この世界の何もかもが不完全なものとなってしまいました。この不完全さを洞察しうる人の霊的な耳には、自然界のありとあらゆるものが声を上げて苦しみ、うめき、叫んでいるのが聞こえてくるに違いありません。
創造物の現状を示すため「共に苦痛を抱く」という語が使われています。これは「出産の苦しみを味わう」を意味するギリシャ語sunódinóの訳語です。出産の激痛には必ず終わりが来ますが、同様に自然界の悲嘆や苦闘が続くのも天地の再創造の時までです。創造物のうめきは腐朽への奴隷状態から自由にされる日に必ず終わるのです。
8:22 わたしたちが知るとおり,創造物すべては今に至るまで共にうめき,共に苦痛を抱いているのです。
興味深いことにパウロはこの事実を「わたしたちが知るとおり」と前置きして語っています。彼は創造物に注意深く目を向けるならだれしもこの事実を感じ取ることができると信じていました。
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