神の子とされる②(ローマ8:14-17)





8:14 神の霊に導かれる者はみな神の子であるからです。

霊に導かれる者は肉への服従から解放されるだけでなく、神の子とされるという恵みも受けます。

神の霊に導かれる者が「みな」神の子であることに注目してください。人間は神の子としての身分で霊に導かれるか、さもなければ神の子とされずに霊の導きの外にいるかのどちらかでしかありえません。聖霊に従うものの神の子ではないという状態の人はいません。




8:15 あなた方は,再び恐れを生じさせる奴隷身分の霊を受けたのではなく,養子縁組の霊を受けたのであり,わたしたちはその霊によって,「アバ,父よ!」と叫ぶのです。

罪に支配された人類は死から逃れることができません。そのため恐怖にとらわれて縮こまった状態にあります。これは律法の下にある者も同じで、パウロもかつては律法下で生活してこの恐れの日々を送っていました。

なおここには「奴隷身分の霊」とあります。これが聖霊でないことはもちろんですが、かといって悪霊などの別の霊を具体的に指しているわけでもありません。「奴隷身分の霊」が実在するのではなく、あくまで「養子縁組の霊」という語と対照させるために便宜上使われた表現と考えてください。




8:15 あなた方は,再び恐れを生じさせる奴隷身分の霊を受けたのではなく,養子縁組の霊を受けたのであり,わたしたちはその霊によって,「アバ,父よ!」と叫ぶのです。

罪の支配から解かれたわたしたちに恐れはありません。むしろ霊を受けたことによって神の養子とされたことを知り、神の子たる者だけが持つことのできる信頼と喜びに満ちた状態を実感するようになります。

本来わたしたちには神の子としての身分も権利もありません。それでも父なる神は聖霊の働きによってわたしたちを特別に神の子として迎えてくださったのです。初めから神の子でないわたしたちはいわば養子として子の身分を受けます。(ガラテア4:4-7) こうした働きゆえに聖霊は「養子縁組の霊」と呼ばれています。




8:15 あなた方は,再び恐れを生じさせる奴隷身分の霊を受けたのではなく,養子縁組の霊を受けたのであり,わたしたちはその霊によって,「アバ,父よ!」と叫ぶのです。

神の子とされた実感は神への深い愛情と感謝の祈りに変わり、その愛と感謝は神に対して「父よ」と呼びかける心からの叫びとなってあふれ出ます。

パウロは「父よ」と並べて「アバ」(ギリシャ語Abba)という言葉を使っています。Abbaは「父」を意味するアラム語で、父に対する心からの願いを述べるときに使う呼びかけの言葉です。イエスも御父に対して「アバ」と呼びかけられました。(マルコ14:35-36




8:16 霊そのものが,わたしたちの霊と共に,わたしたちが神の子供であることを証ししています。

聖霊は「父よ」と神に叫ぶようわたしたちを助けるだけでなく、今度は「わたしたちが神の子供であること」を認識できるように助けてくださいます。言い換えれば父なる神から「子よ」と呼びかけられていることを悟らせ、神とクリスチャンとの関係を二重に保証してくれるのです。ともすると養子という身分は不安定なものに思えるかもしれませんが、そのようなわたしたちに絶対の安心を与えてくださるのが聖霊なのです。聖霊による保証の実感、そしてその体験を裏付ける聖書の言葉が与えられていること、これらは実に心強くありがたいものです。

なおここでは「子供」と訳されたギリシャ語teknonが用いられており、14節の「子」とは違うギリシャ語が当てられています。「子」が親子関係から見た子としての身分を重視した語であるのに対し、「子供」は親との自然な絆を持つ子供のあるべき姿に重点を置いた語です。パウロが「神の子」を「神の子供」と言い換えたのは、神とクリスチャンとの親密な関係を表し、実の子と同等に神に愛される幸福な状態を表現するためとも考えられます。




8:16 霊そのものが,わたしたちの霊と共に,わたしたちが神の子供であることを証ししています。

16節では「霊」という語が二回使われています。最初の「霊そのもの」は明らかに聖霊を指していますが、二番目は「共に」という語からわかるとおり聖霊以外を指しており、なおかつ「わたしたちの霊」ともいわれています。よって例外的ではありますが、二番目の「霊」は神の霊ではなく「わたしたち自身の自覚」のようなものを指すと判断できます。




8:17 さて,子供であるならば,相続人でもあります。

救われた者の輝かしい身分についてパウロは次から次へと教理を展開します。

ローマの法律では子が当然に父の財産を相続することとなっていましたが、これは神の王国においても同じです。クリスチャンは神の子であり、「神の相続人」でもあります。(ガラテア4:7) 父なる神の栄光、愛、義、知恵、力、永遠の命、王国などすべてのものはやがてクリスチャンたちのものとされるのです。




8:17 実に,神の相続人であり,キリストと共同の相続人なのです。

さらにわたしたちは「キリストと共同の相続人」であるとも述べられています。神の独り子であるキリストはすでに御父から世継ぎの定めを受けておられますが、わたしたちもキリストが到来される時にこの方の後に続いて相続人となるのです。

神が愛する御子への相続を惜しまれるはずがありません。その御子とともに相続人となるというのは何と大いなる光栄なのでしょう。




8:17 ただし,共に栄光を受けるため,共に苦しむならばです。

神の相続人となる条件が一つあります。「共に苦しむ」ことです。だれとともにでしょうか。キリストとです。キリストと同じ道を歩みたいなら、その栄光にだけあやかって苦難を避けるということはできません。クリスチャンは栄光への道のりとして必ず苦難を通らなければならないのです。