神の子とされる①(ローマ8:12-13)





1-11節では肉に従うことと霊に従うことの両方が論じられていましたが、12節以降では霊への服従だけに焦点が絞られています。

12-13節は霊に導かれる者が命を受けることを、14-16節は霊に導かれる者が神の子とされることを、また17節は霊に導かれる者が神の相続人とされることを述べています。




8:12 それですから,兄弟たち,わたしたちは義務を負っています。

聖なる者とされることも永遠の命にあずかることも、すべては神の霊から来る恩恵です。肉とのかかわりを断った人にとって肉は赤の他人ですが、聖霊は大恩人ともいうべき存在です。わたしたちはもっぱら神と聖霊に対する自分の義務を考えて生きなければなりません。




8:12 それは,肉にしたがって生きるという,肉に対する義務ではありません。

赤の他人である肉に対してわたしたちはもはや何の負債も負っていません。肉を喜ばせる義務も何一つありません。




8:13 肉にしたがって生きるなら,あなた方は必ず死に至るからです。

肉に属する者は肉欲の命ずるとおりに生活することにより「肉に対する義務」を果たし、最後には死という結末を身に招きます。肉的な人にとってその生活は快いものかもしれませんが、霊的な人は、その生活が死に至るものであることを知っているため肉に従う生き方にいささかも魅力を感じません。




8:13 しかし,霊によって体の習わしを殺すなら,あなた方は生きるのです。

霊に属する者は聖霊の思いに従って生きることに幸福を見いだしますし、事実そうする責任があります。命を得るためにもそのように生きることが必要です。

わたしたちには「体の習わしを殺す」ことが求められます。ここにある「習わし」(ギリシャ語praxis)という語はとりわけパウロが使う場合において悪い意味での「行い」や「行動」を表します。

クリスチャンはだれしも悔い改めてバプテスマを受けることにより聖霊を受ける者となりますが、その後も肉的な習わしの誘惑を受けて試みられることがあります。そのような場面で自分の思いを肉的な習性に傾くままにさせておくなら、その人は遅かれ早かれ肉に属する者となってしまうでしょう。わたしたちは古い人格のころの自分が好んでいた習わしを強い決意をもって捨て去り、二度とそれに逆戻りしないようにすべきなのです。(コロサイ3:5-9