肉のうちにある闘い②(ローマ7:21-25)
7:21 そこでわたしは,自分の場合にこの法則を見いだします。
善を行おうとする努力と自己の罪に対する深い考察の末にとうとうパウロは自分がすさまじく絶望的な法則に縛られていることを発見しました。
7:21 自分では正しいことをしたいと願うのに,悪が自分にあるということです。
正しいことをしたいのに自分には悪が付きまとっているという法則、さらに言うと正しいことをしようとするほど悪のほうが大きくなるという法則です。もしパウロと同じ熱心さで律法を守ろうと試みるなら、だれもが同じ法則を見いだすに違いありません。
7:22-23 わたしは,内なる人にしたがえば神の律法をほんとうに喜んでいますが,自分の肢体の中では別の律法がわたしの思いの律法と戦い,わたしをとりこにして肢体の中にある罪の律法へと引いて行くのを見ます。
この箇所には四つの律法のことが書かれています。「神の律法」、「思いの律法」、「罪の律法」、「肢体の律法」(正確には「肢体の中の別の律法」)です。
最初の二つは神側のもので、残りの二つは罪側のものです。また「神の律法」と「罪の律法」はそれぞれの律法の源を指す表現で、「思いの律法」と「肢体の律法」はそれぞれの律法が活動する場所を指す表現です。
一方の「内なる人」(つまり「思い」)とは良心が働く内面的な場所であり、これは神に服従しようとします。
最初の二つは神側のもので、残りの二つは罪側のものです。また「神の律法」と「罪の律法」はそれぞれの律法の源を指す表現で、「思いの律法」と「肢体の律法」はそれぞれの律法が活動する場所を指す表現です。
一方の「内なる人」(つまり「思い」)とは良心が働く内面的な場所であり、これは神に服従しようとします。
7:22-23 わたしは,内なる人にしたがえば神の律法をほんとうに喜んでいますが,自分の肢体の中では別の律法がわたしの思いの律法と戦い,わたしをとりこにして肢体の中にある罪の律法へと引いて行くのを見ます。
もう一方の「肢体」とは肉が活動する外面的な場所であり、これは罪に服従しようとします。
結果として「思い」と「肢体」は自分という一個の人間に存在しているにもかかわらず常に対立しているのです。
要約すると、神から出て自分の思いに宿る律法がここにあり、罪から出て自分の肢体に宿る律法もここにあり、双方が「わたし」を巡って四六時中戦っているという話です。自分という存在はこの二者の熾烈な戦いの場であり、あげくの果てに自分の思いさえ罪の法則の下に屈服させられるという惨澹たる敗戦の場所なのです。
7:24 わたしは実に惨めな人間です!
これこそ罪の下に置かれた自分と徹底的に向き合った者が当然に発すべき最後の叫びです。
7:24 こうして死につつある体から,だれがわたしを救い出してくれるでしょうか。
神の律法に従おうとするわずかな心さえも打ちのめすような肉の体は、それを苦悩する人にとって「死につつある体」以外の何ものでもありません。どうしてこの惨めさを感じずにいられるでしょうか。
自分のうちで延々と繰り広げられる苦戦の果てに死の苦痛を感じつつあるパウロは「この死の体からわたしを引き上げてくれるのはだれか」と叫び、心の底から救い主を呼び求めます。
7:25 わたしたちの主イエス・キリストを通してただ神に感謝すべきです!
きっと24節の叫びに対しては「もちろん救い出してくれるのは神から遣わされたイエス・キリストである」というパウロの確かな答えがあり、その無言の確信が25節の感謝となって表れ出たのでしょう。
人間のありさまは途方もなく惨めなものですが、わたしたちはキリストの救いのおかげでこの哀れな状態から抜け出すことができるのです。
自分のうちに善を願う部分と悪にひかれる部分あるというのはわたしたちにとって不幸なことです。もし善を願う部分がまったくなければわたしたちは肉欲の生活から快楽を得、何の矛盾も感じず、動物のように葛藤のない一生を送ることができたでしょう。逆に悪にひかれる部分がまったくなかったとしたらどうでしょうか。たやすく神の律法に従うことができ、高潔な生涯を送る満足感を味わえたでしょう。
残念ながら人間はこのどちらでもありません。善と悪が自分の中で混戦を極めながら日夜衝突しているのを体験しなければなりません。人類にとってこれは最大級の悩みです。神と主イエス・キリストから来る救いがなければ、この悩みは永遠に終わることがありませんでした。
7:25 こうして,わたし自身は,思いでは神の律法に対する奴隷ですが,肉においては罪の律法に対する奴隷なのです。
つまり「思い」と「肉」の対立の場、「神の律法」と「罪の律法」との戦いの舞台が自分自身という人間なのです。
自分の罪深さを強く自覚する人のうちパウロの思いに共感を覚えない人はまずいないでしょう。とはいえ間違っても「使徒パウロでさえこのような罪の葛藤を経験したのだから、平凡なクリスチャンが罪の闘いに負けるとしてもそれは仕方がない」などと考えるべきではありません。パウロが自分の現状を赤裸々に語ったのは、自分の罪をやむをえないものとして弁護するためではなく、肉の無力さを抱えるわたしたちに聖霊の働きが欠かせないことを教えるためでした。わたしたちは罪に妥協せず、むしろ信仰と不断の霊の導きを求める必要性を強く認識すべきなのです。
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