肉のうちにある闘い①(ローマ7:14-20)





14-25節では肉なる人間の現実がありありと描き出されており、罪の力と律法の無力さが証明されています。そしてその結論が「霊に従う信仰の生活こそが人を罪から自由にする」という8章の論点につながっていきます。

ちなみに7-13節は過去形の動詞で語られていますが、14-25節は現在形で語られています。そのため14-25節については、クリスチャンとなる前の状態を述べているのかクリスチャンとなった後の状態を述べているのかという解釈上の議論もあります。

しかしそれを議論することには実質的に意味がありません。肉なる人間の本質は回心前後を問わず同一であり、回心後に生じる変化はただ聖霊によって肉の力に勝つことができるようになるという一点のみだからです。

そういうわけで14-25節で述べられている状態は、非クリスチャンはもちろんのことクリスチャンでありながら聖霊の力に自己をゆだねない人にも当てはまるものだと考えて問題ないでしょう。




7:14 わたしたちが知っているとおり,律法は霊的なものであるからです。

ギリシャ語原文を見ると14節は「なぜなら」で始まっており、7-13節にあった「律法そのものは良いものである」ことの理由を述べた箇所となっています。

わたしたちが知るとおり律法は神の霊によって与えられたものです。したがってそれ自体もその要求もすべて霊的です。聖書には「霊的な」と訳されるギリシャ語のpneumatikosがよく出てきますが、これは大抵「聖霊に属する」とか「聖霊の働きによる」などの意味で使用されています。単に「目に見えない」とか「精神的な」などを指すわけではないことを念頭に置いてください。




7:14 しかしわたしは肉的であって,罪のもとに売られているのです。

わたしたち生まれながらの人間は律法と違って肉的です。「肉的な」という表現も頻繁に聖書に出てきます。これのギリシャ語sarkinosには「肉に属する」とか「肉の傾向のままの」などの意味があります。




肉は罪に奴隷として売り渡されているという惨めな状態にあり、この性質はクリスチャンであるかどうかを問わずすべての人が持っています。

霊と肉は正反対の性質です。律法は霊的、しかし人間は肉的。この真理は律法の役割と人間の罪の本質を理解する基礎となります。




7:15 わたしは自分の生み出しているものを知らないからです。

パウロは「わたしは自分の生み出しているものを知らない」と述べています。何も自分の言動の言い訳をしているわけではありません。結果も考えずに無我夢中で罪を犯してしまう肉的な人間の習性を言い表しているのです。




7:15 自分の願うところ,それをわたしは実践せず,かえって自分の憎むところ,それを行なっているのです。

肉の性質に操られたわたしたちの行動は常に矛盾しています。自分の願うことと行うことが全然一致しないのです。わたしたちには確かに「自分の願うところ」があり、その内容はそれなりに褒めるべきものであったりするわけです。生まれつき備わった良心ゆえに肉の中にも善を志す心があるにはあるのです。




7:15 自分の願うところ,それをわたしは実践せず,かえって自分の憎むところ,それを行なっているのです。

それなのに行動に移してしまうことといえば「自分の憎むところ」ばかりです。自分に良心のかけらもないことではなく、良心があるのにそれに沿って行動できないこと。これがわたしたちの苦悩の原因ではないでしょうか。




7:16 しかし,自分の願わないところ,それがわたしの行なうところとなっているなら,わたしは,律法がりっぱなものであることに同意しているのです。

人間は願うことと行うことが相反しており、たとえ願いは霊的であっても行いは肉的です。これは裏を返せば「行いはともかくも願いは霊的なものである律法と一致している」ということです。




7:17 しかし今,それを生み出しているのはもはやわたしではなく,わたしのうちに住む罪です。

それでも律法を守ろうとする良心と律法を破らせようとする罪が肉を舞台にして戦い、結局は罪がいつも戦いを制するのです。




7:18 わたしは自分のうち,つまり自分の肉のうちに,良いものが何も宿っていないことを知っているのです。

パウロは自分自身の中に「心」と「肉」という二つの自分がいるかのように話しています。二重人格ともいうべき状態です。

肉のほうはすでに罪に支配されてその言いなりになっています。よって肉には「良いものが何も宿っていない」のです。




7:18 願う能力はわたしにあるのですが,りっぱな事柄を生み出す能力はないからです。

心のほうは良いことを願うものの肉を統御する力がありません。よって「りっぱな事柄を生み出す能力はない」のです。




7:19 自分の願う良い事柄は行なわず,自分の願わない悪い事柄,それが自分の常に行なうところとなっているのです。

パウロは「結局わたしは善を行いたいという自分の望みと裏腹な行動をとっているではないか」と言います。肉の現実を嘆く彼の悲痛がひしひしと伝わってくるのではないでしょうか。




7:20 では,自分の願わない事柄,それがわたしの行なうところであるなら,それを生み出しているのはもはやわたしではなく,わたしのうちに宿っている罪です。

もはや自分自身が自分のものでないように思えるほどに罪が入り込んで肉体を占領し、わたしたちの意思に反することをさせるのです。