律法と罪②(ローマ7:12-13)





7:12 それゆえに,律法そのものは聖なるものであって,おきては聖にして義にかない,良いものです。

律法は悪くないどころか神から与えられた「聖なるもの」です。そして聖なるものであるゆえに「義にかない」、「良いもの」です。神の律法そのものは十分な敬意に値するものであって、何ら非難されるべきものではありません。




7:13 では,良いものがわたしにとって死となったのですか。

パウロは再び7節のような問いを発しています。今度は12節を前提にし、「それでは良いものであるはずの律法が人を殺すのか」と問いかけています。おきてが来た時を境にパウロが死んだというのならそういう結論に至りかねません。




7:13 断じてそのようなことはないように! そうではなく,罪がそうなったのです。

もちろんパウロが言いたいのはそういうことではありませんでした。律法がパウロを死なせたのは確かですが、これは罪が律法を利用して彼を死なせたということにほかなりません。




罪と律法と死に関する説明は複雑に思えるかもしれませんが、実際の殺人に例えると理解しやすいかもしれません。罪は殺人者、律法は刃物のようなものです。置いてあった刃物を手に取って殺人者が人を殺すように罪は律法の存在を都合よく利用して人を死に至らせます。この状況を「彼は刃物によって殺された」と描写できるとしても、実際にそれは「刃物を手にした殺人者によって殺された」という意味にすぎません。悪いのは殺人者であって、刃物ではありません。




7:13 それが良いものを通してわたしに死を生み出すそうした罪として示されるためであり,罪がおきてを通していよいよ罪深いものとなるためでした。

わたしたちを霊的な死に陥れた張本人は罪であって、律法ではありません。

罪は律法を使ってわたしたちを殺しましたが、このことはわたしたちに有益な結果をもたらしました。律法は罪の正体をますます明らかにし、わたしたちが考える以上に罪が罪深いものであることを表面化させてくれたのです。

ただし律法についていうと、これもこれで罪を打ち負かす点では無力であることを露呈しました。こうして律法は、罪と律法とわたしたちの関係をはっきりさせる点で有益なものとなりました。

わたしたちが神の律法に従おうとしない間は罪も力を発揮しません。しかしわたしたちが神の律法に従おうとすると罪はすぐさまその力を奮い起こしてわたしたちの努力を阻もうとします。そして負けじとわたしたちが熱心に神の律法を守ろうとすると、罪はいよいよ本領を発揮して力づくでわたしたちを圧倒し、やがて完全に屈服させるのです。神のおきてに従おうという堅い信念を抱いて邁進する人はだれしもこの無念を体験しなければならないでしょう。