律法と罪①(ローマ7:7-11)





律法は神から与えられたものであり、良いもののはずです。にもかかわらずローマ書では律法がひたすら罪と結びつけられています。律法と罪の関係を正しく把握することはローマ書の難関の一つですが、この難関をくぐることなくして救いの教理を理解することはできません。7-13節でパウロはこの問題に真正面から取り組み、自分の体験談も交えながら律法と罪の関係を明らかにしていきます。




7:7 では,わたしたちは何と言えばよいでしょうか。律法が罪なのですか。

5節に書かれてあったように律法によって生み出されるのは「死への実」です。こう聞くと、ある人は「要は律法自体が罪ということなのか」と言うでしょう。




7:7 断じてそうはならないように! 実際,律法がなかったなら,わたしは罪を知ることはなかったでしょう。

律法自体は罪ではありません。もし罪であれば、律法は有益な働きをなさないでしょう。しかし実際はどうでしょうか。

律法には人の心に罪を自覚させるという有益な働きがあります。もっとも罪の意識は人間に生まれつき備わった良心の働きによってもある程度生じます。律法を持たない諸国民も悪いことをすれば良心によって罪の責めを感じます。しかし罪は律法によって一層明らかにされます。人は律法を守ろうと熱心に努力するほど自分の罪深さを強く感じるようになるのです。まさにパウロが実感したとおりです。

これが律法と罪の関係です。律法の正体はあくまで罪の意識の原因なのであって、罪そのものではありません。




7:7 たとえば,律法が,「あなたは貪ってはならない」と言っていなかったら,わたしは貪欲ということを知らなかったでしょう。

パウロは自分の経験を通して律法が罪の意識の原因となりうることを例証します。彼は出エジプト記2017節(または申命記521節)から十戒の十番目のおきてを引用し、「このおきてが存在しなければ自分は貪りという罪を知らなかった」と告白しています。

ここで例として選ばれたのが十番目のおきてだったことは興味深い点です。十番目以外はあからさまな行為として表れる罪を禁じています。「殺人をしてはならない」とか「盗んではならない」などがそうです。殺人や盗みは行為を特定しやすいため罪として認識するのは難しくありません。

しかし貪欲はそれらと異なり心の中で生じる罪です。そのため他人の目に留まりにくく、また本人すら罪として認識していない場合が多いのです。それを戒める律法と向き合ってようやく「自分にも貪欲という罪があるのだ」と気づく人も少なくないのです。




しかも貪欲の罪は厄介なもので、他のあらゆる罪の原因となっていく危険性をはらんでいます。十番目のおきてを前にしては、十戒の他の命令を忠実に守っていたパウロも自分の罪を告白せざるをえませんでした。




7:8 しかし,罪はおきてを通して誘いを受け,わたしのうちにあらゆる貪欲を生み出しました。

「貪ってはならない」との戒めを知らない人は貪りが罪であることを知りません。したがって貪欲の心すら意識しない状態にあります。しかしこの律法が与えられるに及んで罪はこれを機にわたしたちの心を刺激し、種々の貪欲な思いを作り出して罪を犯させるのです。

これはエデンの園で蛇が「食べてはならない」という神の命令に乗じてエバの心に神への不従順を発生させたのと似ているかもしれません。

「誘い」と訳されているのは本来「出発点」または「根拠地」を意味するギリシャ語aphorméです。罪は律法という良いものさえも利用して人の罪深い本性をかき立てる存在なのです。罪の恐ろしさを改めて感じさせられるのではないでしょうか。




7:8 律法がなければ,罪は死んでいたのです。

罪は律法をきっかけとして働きだすものですから、律法がない限り罪は死人のように無活動です。




7:9 事実,わたしはかつて律法なしに生きていました。

古代ユダヤ人は12歳ごろから律法の教育を受けていました。ユダヤ人として生まれたパウロも幼少時代は律法に縛られることなくはつらつと生きていたに違いありません。




7:9 しかしおきてが到来した時,罪は生き返り,わたしは死にました。

ところがやがてパウロも青年となり、律法を学ぶようになりました。律法を意識するようになった途端眠っていた罪は彼の中で目を覚まし、活動を始めたのです。

生き返った罪とは反対にパウロ自身は死にました。本当に死んだわけではないものの霊的に見れば生気のない死者のようになったということでしょう。ここに律法下で実感したパウロの言い知れない無力感が描写されています。彼の悲壮な闘いの経験を示すのに「死んだ」という言葉に勝る表現はありません。




7:10 そして,命に至らせるおきて,わたしはこれが,死に至らせるものであることを見いだしました。

本来律法は霊的に死んだ者を「命に至らせる」ためのものでした。(レビ記18:4-5) それなのにパウロの体験によれば律法は生きた者を死なせているというではありませんか。彼の驚きと失望はいかばかりだったでしょう。

なおここでいう「命に至る」や「死に至る」というのは623節などでいわれている命や死とは厳密に同じではありません。623節のほうは最終的な命と死、将来の裁きの日に言い渡される永遠の命と永遠の死のことを指していますが、710節は現在の霊的状態としての命と死のことを述べています。この両者には一定の区別がありますが、かといって無関係でもありません。現在の霊的な生死はそのまま将来の永遠の命や死につながっていくからです。






7:11 罪はおきてを通して誘いを受け,わたしをたぶらかし,それを通してわたしを殺したのです。

パウロは「おきてがわたしを死に至らせた」という10節の言葉をここで「罪がおきてを通してわたしを殺した」と言い換え、自分を死なせたのが「おきで」ではなく「罪」であることを明らかにします。

罪が人を死に至らせるプロセスは「たぶらかす」、それから「殺す」です。

「たぶらかす」と訳されているギリシャ語exapataóは本来「欺き出す」を意味する語で、正しい道から外側に逸脱させる動作を指します。罪は律法を守ろうとする人を律法から脇道にそらせ、結果として死に落ち込ませるのです。