キリストのもの(ローマ7:1-6)
7章1-6節は6章15-23節に続く二つ目の例えです。ここでは神聖さの原則が結婚関係の例えをもって説明されています。
7:1 兄弟たち,律法が人に対して主人となるのはその人が生きている間であるということを,あなた方は知らないのでしょうか。
法というものはあくまで生きた人を律するものです。法によって裁きを受けるのは原則として生きている人間です。モーセ律法もそうでした。人は死と同時に法の制約から解かれますから、法が死亡した人間を拘束することはできません。
7:1 (わたしは,律法を知っている人たちに話しているのです。)
以上の原則をパウロは「律法を知っている人たち」に向けて話しています。
ギリシャ語原文を見ると、この句に出てくる「律法」という語には冠詞がありません。これはこの「律法」がモーセ律法というより世間一般の法律を指していることを意味します。律法が生きている人だけを拘束することは法の一般的な性質ですので、この点はモーセ律法の下にあるユダヤ人でなくても同意できることです。
7:2 例えば,結婚している女は,夫が生きている間は律法によって彼のもとに縛られています。
1節の原則を示す一つの例として結婚関係を規定する法がここで取り上げられています。モーセ律法では、妻の側から夫と離婚することはできないものとされており、妻は夫が生きている限り夫に属さなければなりませんでした。
7:2 しかし,夫が死ねば,彼女は夫の律法から解かれます。
しかし夫が死亡すれば話は別です。妻は「夫の律法」、すなわち夫への服従を義務づける律法の規定から自由になります。
ところで1節でいわれていたのは「死んだ人は律法から解かれる」という原則でした。であれば実例として挙げるべきなのは「死んだ妻は結婚の制約から解かれる」ということのはずです。にもかかわらず2節は「夫が死んだら生きている妻も結婚の制約から解かれる」という話になっており、実例が1節の趣旨に適合しないように思えるかもしれません。
ただしこれを矛盾と見なす必要はありません。なぜなら既婚の男が亡くなれば配偶者である女も彼の妻ではなくなるからです。要するに妻としては死ぬのです。
そういうわけで2節の実例は「夫が死んだら妻もある意味で死に、妻として死んだその女は結婚の制約から解かれる」ということを示すものと解することができ、その結果1節の趣旨と合致するものとして理解することができます。
そういうわけで2節の実例は「夫が死んだら妻もある意味で死に、妻として死んだその女は結婚の制約から解かれる」ということを示すものと解することができ、その結果1節の趣旨と合致するものとして理解することができます。
7:3 それですから,夫が生きている間に別の男のものとなったとすれば,その女は姦婦ととなえられるでしょう。
仮に結婚している女が夫の存命中に他の男の所に行けば、それは姦淫と判断されます。彼女は律法の規定に従って相応の処罰を受けなければなりません。
7:3 しかし,夫が死ねば,その女は彼の律法から自由になるので,別の男のものとなったとしても,姦婦ではありません。
しかし夫が死んだ後であればやはり話は別です。他の男と再婚しようが何をしようがそれは彼女の自由です。死んだ夫の配偶者という身分においてはすでに死んでいるからです。
7:4 それで,わたしの兄弟たち,あなた方も,キリストの体により律法に対して死んだものとされたのです。
キリストはご自身の体を杭につけて死んでくださいましたが、それはわたしたちがキリストとともに死に、その死によって律法というこれまでの夫から解放されるためでした。
7:4 それは,あなた方が別の方のもの,死人の中からよみがえらされた方のものとなって,わたしたちが神への実を結ぶためです。
そしてわたしたちが律法から解かれて自由になったのは、「死人の中からよみがえらされた方」であるキリストといわば再婚するためでした。
こうして神のために聖なる行い、聖なる生活、聖なる生涯という実を結ぶことがわたしたちの人生の目的となりました。ちょうど妻が夫によって子を産むようにクリスチャンはキリストによって「神への実を結ぶ」のです。
ちなみに1-6節の要点は「妻が夫に属するようにクリスチャンはキリストに属するようになった」ということなのですが、それ以前はだれに属していたかという点では解釈が分かれます。
主に「律法に属していた」とする見解と「罪に属していた」とする見解があるのですが、この注解では前者の見解を採用したいと思います。そのほうがキリストのものとなった現在の状態のことを「律法に対して死んだ」と述べる4節と調和するからです。また「今やわたしたちは律法から解かれた」と述べる6節とも調和がとれます。
主に「律法に属していた」とする見解と「罪に属していた」とする見解があるのですが、この注解では前者の見解を採用したいと思います。そのほうがキリストのものとなった現在の状態のことを「律法に対して死んだ」と述べる4節と調和するからです。また「今やわたしたちは律法から解かれた」と述べる6節とも調和がとれます。
7:5 わたしたちが肉にしたがっていた時には,律法によってかき立てられた罪深い情欲がわたしたちの肢体のうちに働いて,わたしたちに死への実を生み出させていたのです。
キリストのものとなる前のわたしたちは肉的な欲望に従って生きていました。(エフェソス2:1-3)
そのころ夫であった律法は何をしていたのでしょうか。罪へ誘う欲情をかき立て、わたしたちの体にますます罪深い行動を起こさせていたのです。この「律法が罪深い情欲をかき立てる」というのがどういう意味かは7-13節で考えましょう。
そのころ夫であった律法は何をしていたのでしょうか。罪へ誘う欲情をかき立て、わたしたちの体にますます罪深い行動を起こさせていたのです。この「律法が罪深い情欲をかき立てる」というのがどういう意味かは7-13節で考えましょう。
律法とわたしたちとの結婚関係によって産まれたものは恥ずべき多くの罪でした。罪は悪を生み、結局はわたしたちを死に至らせていました。
7:6 しかし,今やわたしたちは律法から解かれました。
死んだ者は法の縛りから解かれるという原則に従ってわたしたちはいまや律法から解放されました。
7:6 自分たちが堅く抑えられていたものに対して死んだからです。
「自分たちが堅く抑えられていたもの」とは律法を指します。
7:6 それは,霊によって新しい意味での奴隷となり,書かれた法典による,古い意味での奴隷とはならないためです。
クリスチャンはもう「書かれた法典」、つまり文字によって与えられた律法に属していません。律法に属することはわたしたちにとって「古い意味での奴隷」の状態ですから、もう二度とそのような状態に戻る必要はありません。
7:6 それは,霊によって新しい意味での奴隷となり,書かれた法典による,古い意味での奴隷とはならないためです。
キリストに属することは「新しい意味での奴隷」の状態です。そこには文字の命ずることを行わせようとする律法とは異なる原則が働いています。すなわち良いたよりと信仰によって与えられる霊の力で律されるという原則です。
ある人は、律法がない状態は道徳的に危険だと考えるかもしれません。しかし律法が目標としていた状態は、人がむしろ律法という文字の力に頼らず、生ける聖霊の導きに動かされることによって成就されます。そのような状態にあってこそわたしたちは神聖さに至る実を結ぶことができるのです。
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