キリストにある死と命②(ローマ6:6-11)





6:6 わたしたちが知るとおり,わたしたちの古い人格は彼と共に杭につけられたのであり,それは,罪深い体が無活動にされて,もはや罪に対する奴隷とはならないためです。

キリストへのバプテスマを受けた者は、キリストのように自分の体を苦しみの杭につけた者でなければなりません。過去のわたしたちはアダムに属する「古い人格」を有しており、体は罪に仕えていました。それでも信者になった時に罪の奴隷となっていたこの古い人格はキリストとともに杭につけられ、死滅しました。




6:6 わたしたちが知るとおり,わたしたちの古い人格は彼と共に杭につけられたのであり,それは,罪深い体が無活動にされて,もはや罪に対する奴隷とはならないためです。

クリスチャンが自分を杭につける目的は、罪に従おうとする肉体を殺して無能力なものとさせてしまい、自分がもはや罪に仕えることのないようにすることです。クリスチャンは罪の隷属に二度と戻らない新しい人格を身に着けるべきであり、(エフェソス4:22-24、コロサイ3:9-10) その状態で聖霊による清めを受ける必要があります。




6:7 死んだ者は自分の罪から放免されているのです。

とはいえ現実問題として人間が罪の奴隷状態に戻らないなどということは可能なのでしょうか。パウロはそれが可能である理由として「死んだ者は罪から放免されている」と述べています。

死んだ人間は生きている人間と異なり罪を犯す余地がありません。したがって罪が死者を支配する余地はなく、そういう意味で死んだ者は罪から解放されています。自分の肉の体を杭につけた人も罪に対しては死んでいます。それゆえ罪の支配から解放されて、もはやその奴隷とはならないことが可能なのです。

なおギリシャ語原文に「自分の」という語はありません。原文は「死んだ者は罪から放免されている」です。この句は「死んだ人は生前に犯した自分の罪の罰をもう受けないでよいように放免されている」というより「死んだ人は自分に罪を犯させる罪の支配から解放されている」という意味に解釈したほうがよいと思われます。そのほうが「もはや罪に対する奴隷とはならない」という直前の句の説明として適切だからです。




6:8 さらに,キリストと共に死んだのであれば,彼と共に生きるようになることをもわたしたちは信じています。

キリストの死へのバプテスマを受けた者はキリストのように再び生きることとなります。キリストは杭の上で死んだだけでなく、よみがえって現在も生きておられます。キリストと霊的に結合したクリスチャンにとってキリストの復活は自分自身の復活でもあります。そしていま生きている自分の命は神の右で生きているキリストの命と結びついています。(ガラテア2:19-20、フィリピ1:21、コロサイ3:1-4




6:9 死人の中からよみがえらされた今,キリストはもはや死なないということを,わたしたちは知っているからです。

また復活したキリストは「もはや死なない」、すなわち永遠に生きておられますが、キリストと一つになって生きているわたしたちの命も同様に永遠です。




6:9 死はもはや彼に対して主人ではありません。

キリストが永遠に生きておられるといえる理由、それはキリストがもはや死に服すことがないという点にあります。「死はもはやキリストに対して主人ではない」のです。




6:10 彼の遂げた死,それは罪に関してただ一度かぎり遂げた死であったからです。

キリストは罪を犯さなかったにもかかわらず人類の罪を負って苦しみの杭につかれました。そして「一度かぎり」死ぬことによってご自身が代わりに背負った罪との関係を完全に清算し、同時に人類と罪との関係も清算してくださいました。(ヘブライ9:11-12、ペテロ第一3:18) そのためキリストには二度と死を繰り返す必要がありません。




6:10 また,いま生きておられる命,それは神に関して生きておられる命なのです。

死ぬ前のキリストは罪との関係を清算するという使命を身に帯びておられました。しかしそれを成し遂げてよみがえった現在のキリストはもはや罪とまったく無関係に生きておられます。ただ父なる神との関係において生きておられるのです。




6:11 あなた方も同様です。

パウロはキリストの聖なる生き方を自分の生き方とするようクリスチャンに勧めます。




6:11 自分を,罪に関してはまさしく死んだもの,しかし,神に関してはキリスト・イエスによって生きているものとみなしなさい。

わたしたちはキリストとともに杭につけられて死に、キリストとともに葬られ、キリストとともによみがえらされ、キリストとともに再び生きるのです。クリスチャンの生活と生涯はあくまで主イエス・キリストと結ばれています。生きるにしても死ぬにしてもこの方と一つです。キリストが罪に対して死なれたようにわたしたちも「罪に関してはまさしく死ぬ」必要があります。




6:11 自分を,罪に関してはまさしく死んだもの,しかし,神に関してはキリスト・イエスによって生きているものとみなしなさい。

そしてキリストがいまや神に対してのみ生きておられるのと同じようにわたしたちも「神に関してはキリスト・イエスによって生きる」必要があります。

もっとも1-11節で述べられているのは文字どおりの生死の話ではなく罪や神との関係における生死の話です。依然としてわたしたちの肉体には罪が宿っていますし、物理的に死ねば罪の問題が解決するというわけでもありません。だからこそ11節でいわれているように「みなす」ことが重要です。罪については死んでおり、神に対しては生きているという認識を常に持ち、その認識に従って歩まなければなりません。強い決心が必要ですが、聖なる者となるためにはこれが不可欠なのです。