神の奴隷②(ローマ6:19-23)
6:19 わたしは,あなた方の肉の弱さのために人間的な言い方をします。
パウロは「あなた方の肉の弱さのために人間的な言い方をする」と断りを入れ、霊的な物事に対する人間の理解力の低さとそれゆえに例えをもって平易に説明する必要があることを指摘しています。
13節では肢体が「武器として差し出されるもの」に例えられていましたが、19節では肢体が「奴隷」として全面的に擬人化されています。
6:19 あなた方は,かつて自分の肢体を,不法の見込みを伴う不法と汚れに対する奴隷として差し出したように,今は自分の肢体を,神聖さの見込みを伴う義に対する奴隷として差し出しなさい。
ローマのクリスチャンたちはかつて罪の奴隷でした。これは彼らが以前は「自分の肢体を不法と汚れに対する奴隷として差し出していた」ということにほかなりません。
「不法」はギリシャ語anomiaで「法を破ること」を指し、「汚れ」はギリシャ語akatharsiaで「道徳的な不潔」を指します。不法と汚れは罪の両側面です。自分の肢体が罪の奴隷となれば体そのものが不法なものと化します。
6:19 あなた方は,かつて自分の肢体を,不法の見込みを伴う不法と汚れに対する奴隷として差し出したように,今は自分の肢体を,神聖さの見込みを伴う義に対する奴隷として差し出しなさい。
反対にもし自分の五体を義の奴隷とするなら、肉の体も神聖なものに変えられます。「神聖さ」と訳されたギリシャ語hagiasmosは「清いものとして神から取り分けられること」を指します。
罪の奴隷は不法に向かって堕落していく一方ですが、義の奴隷は神聖さという神に由来する性質に向かって進歩します。義なる神の意志に従うことで神の霊の力により心も生活も清められるからです。
罪の奴隷は不法に向かって堕落していく一方ですが、義の奴隷は神聖さという神に由来する性質に向かって進歩します。義なる神の意志に従うことで神の霊の力により心も生活も清められるからです。
6:20 罪の奴隷であった時,あなた方は義については自由であったのです。
罪の奴隷であった過去の生活においては、罪が圧倒的な権力を振るってわたしたちを支配していました。一方義は何の支配力も及ぼしておらず、したがってわたしたちは義に対して何の義務も負っていませんでした。
義に背いても別に懲らしめを受けず、かといって義に従っても褒美があるわけではない。このようにわたしたちは悲しいくらい義と無関係でした。
6:21 では,あなた方がその当時得ていたのはどんな実でしたか。
人によっては「義については自由である」という状態のほうが心地よいのかもしれません。肉欲の赴くまま罪に従って行動するほうが楽だからです。
しかし結果を考えるとどうでしょうか。不法と汚れに支配されていたころの自分は何か良い結果を生み出していたでしょうか。
6:21 それは,あなた方が今では恥じているものです。
どちらかといえば思い返すと恥じ入るような結果ばかりを身に招いていたのではないでしょうか。
6:21 その終わりは死であるからです。
罪の奴隷は汚れに向かって突き進むことしかできません。そして最後には神の裁きによって永遠の死に至ります。15-16節で「死の見込みを伴う罪の奴隷」といわれていたとおりです。
6:22 しかし,今あなた方は罪から自由にされて神に対する奴隷となったので,神聖さの面で自分の実を得ており,その終わりは永遠の命です。
悔い改めてクリスチャンとなったわたしたちはいまや義の奴隷または「神に対する奴隷」となりました。今度は罪に対して自由となったためどんな不法や汚れもわたしたちを支配することができません。
クリスチャンとは自由になるために召された者だと聖書は言っています。(ガラテア5:13) しかし一方でわたしたちは神の奴隷であるともいわれています。「奴隷」であるなら結局のところ自由などないということなのでしょうか。そうではありません。
人間はもともと神の奴隷として生きるように創造されました。つまり神の命令に従って生きるのが人間にとっては自然な姿であり、最も無理のない姿なのです。ですから神の奴隷となるとき人間の良心は自然とそれを受容し、何ら抵抗や違和感を覚えないはずです。この状態にこそわたしたちは真の自由を見いだすということなのです。
6:22 しかし,今あなた方は罪から自由にされて神に対する奴隷となったので,神聖さの面で自分の実を得ており,その終わりは永遠の命です。
神の奴隷となったわたしたちの行いは自然と神聖なもの、清められたものとなっていきます。信仰は清い行いを伴いつつ最終的には永遠の命に至ります。
6:23 罪の報いは死ですが,神の賜物は,わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命だからです。
罪が支配する世界の定め、それは罪という主人が最後に奴隷たちに賃金を払うことです。その賃金とは「死」です。「報い」と訳されているギリシャ語opsónionは「兵士に支払われる賃金」を意味します。罪の奴隷となって罪のために働く者は全員この死という報酬を受け取らなければなりません。
6:23 罪の報いは死ですが,神の賜物は,わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命だからです。
対照的に神の支配の定めは神がその奴隷たちに恩恵を授けることであり、その恩恵とは「永遠の命」です。「賜物」と訳されているギリシャ語charismaは「神がくださる恩恵」を意味します。
賃金は働いた結果に応じて当然に受け取るものですが、恩恵は違います。神の奴隷といえどわたしたちは自力で神の意志に従えるわけではありません。ひとえに神がわたしたちを清めてくださるゆえにそれができるのです。よってわたしたちに報酬を受け取る権利があるわけではないのです。それでも神はわたしたちに永遠の命を与えてくださいます。受け取れるはずもないわたしたちに不釣り合いなほどの大きなこの祝福を「神の賜物」というのです。
永遠の命は「わたしたちの主キリスト・イエスによる」ものです。この文は「わたしたちの主キリスト・イエスにあって受ける永遠の命」と訳し、永遠の命の手段というより永遠の命の本質的状態を説明した句であると解釈したほうがよいでしょう。つまり永遠の命はキリストのうちに存在するということです。単に永久に生きられることが魅力的なのではありません。永遠の命がすばらしいのは、それがキリスト・イエスとの霊的な交わりの中で享受する命だからなのです。
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