神の奴隷①(ローマ6:15-18)
6章15節から7章6節までの部分では二つの例えが用いられています。
前半の6章15-23節には主人と奴隷(主従関係)の例えがあります。これはクリスチャンが罪ではなく神に服すべきことを示す例えで、6章14節後半の「罪があなた方の主人となってはならない」という考えを敷衍したものと見ることができます。
後半の7章1-6節には夫と妻(結婚関係)の例えがあります。こちらはクリスチャンが律法ではなくキリストに属すべきことを示す例えで、6章14節前半の「律法のもとにない」という考えを敷衍したものと見ることができるでしょう。
この二つの比喩によって示される結論は聖霊によって生きるわたしたちに必要な指針でもあります。
ちなみに15-23節を見ていくと、15-16節で「罪の奴隷」や「従順の奴隷」、18節で「義に対する奴隷」、19節で「不法と汚れに対する奴隷」、22節で「神に対する奴隷」という具合に類似したいくつもの表現が出てきますが、これらはすべて「罪の奴隷」か「神の奴隷」かのどちらかを指す表現であると理解できます。パウロは用語を細かに定義することなく上記の表現を使用していますので、そのことを踏まえてこの箇所を理解するのがよいでしょう。
6:15 ではどうなりますか。わたしたちは,律法のもとにではなく過分のご親切のもとにいるがゆえに罪を犯すのですか。
「律法下にいれば罪はいちいち裁かれるが、過分の親切の下にいれば罪は許される。であれば恐れることなど何もなく、むしろ大いに罪を犯すべきではないか」。これが過分の親切の下にいることの意味を正しく理解できない人が発する異議であり、往々にして陥る誤認識です。
1節にも似たような問いがありましたが、そこで問われているのは「罪にとどまろうではないか」でした。これが15節では「罪を犯そうではないか」というように一段と強気な問いかけとなっており、より積極的に罪を正当化しようとする態度が表されています。
6:15-16 断じてそのようなことはないように! あなた方は,自分を奴隷としてだれかに差し出してそれに従ってゆくなら,その者に従うがゆえにその奴隷となり,死の見込みを伴う罪の奴隷とも,あるいは義の見込みを伴う従順の奴隷ともなることを知らないのですか。
パウロは上記の問いかけに対して「断じてそのようなことはないように!」と猛反論します。
一般社会に存在する主従関係を見ればわかることですが、人がだれかの奴隷となる場合その人には主人に対して絶対の服従を示す義務が生じます。奴隷は主人との関係において自由を持たず、自分の意思にかかわらず主人の命令に従わなければなりません。
6:15-16 断じてそのようなことはないように! あなた方は,自分を奴隷としてだれかに差し出してそれに従ってゆくなら,その者に従うがゆえにその奴隷となり,死の見込みを伴う罪の奴隷とも,あるいは義の見込みを伴う従順の奴隷ともなることを知らないのですか。
わたしたちの前には「罪の奴隷」となる道と「従順の奴隷」となる道の二つがあります。言うまでもなくどちらを選ぶかによって最終的に自分がどうなるかも変わってきます。
罪の奴隷となることには「死の見込み」が伴います。この場合の「死」には肉体の死だけでなく道徳的な死や霊的な意味での最終的な滅びも含まれています。残念ながら人間の肉的な傾向が罪という主人を好むため、多くの人は罪に奴隷として仕えることを選びます。
罪を犯すことは罪の奴隷となることを意味し、罪の奴隷となることは死に至ることを意味します。そうなりたくなければ最初から「過分の親切があるのだから罪を犯そう」などという気を起こすべきではありません。
6:15-16 断じてそのようなことはないように! あなた方は,自分を奴隷としてだれかに差し出してそれに従ってゆくなら,その者に従うがゆえにその奴隷となり,死の見込みを伴う罪の奴隷とも,あるいは義の見込みを伴う従順の奴隷ともなることを知らないのですか。
従順の奴隷となることには「義の見込み」が伴います。「従順の奴隷となる」とはつまり神に対して従順に仕えることです。「義の見込み」とは義とされて命に至ることと言い換えて差し支えありません。現に義とされた人は将来完全に義人とされますし、義人とされた者は信仰ゆえに命を受けることとなるからです。
6:17 しかし,神に感謝すべきことに,あなた方は罪の奴隷であったのに,その導き渡された教えの様式に心から従順になりました。
罪の奴隷と従順の奴隷の行く末を論じたパウロはここで不意にローマのクリスチャンたちの状態に目を向けました。するとどうでしょう。にわかに彼の心に感謝の気持ちがわき上がりました。なぜなら彼らが15節のような理屈をこねる人とは正反対に従順の奴隷となることを素直に選んだ人たちだったからです。
6:17 しかし,神に感謝すべきことに,あなた方は罪の奴隷であったのに,その導き渡された教えの様式に心から従順になりました。
ローマの信者たちは確かに従順でした。何に対してでしょうか。「導き渡された教えの様式」、すなわち伝えられた神の教えに対してです。
「様式」と訳されたギリシャ語tuposには「型」や「規範」という意味があります。主人である神はわたしたちを束縛して服従させたりするような方ではありません。代わりに行動の規範を与え、それにわたしたちが自主的に従うことを望んでおられます。
6:17 しかし,神に感謝すべきことに,あなた方は罪の奴隷であったのに,その導き渡された教えの様式に心から従順になりました。
しかも信者となる前のローマのクリスチャンたちは罪に従って生きていました。その状態で良いたよりを聞いた時彼らは「心から」悔い改め、意を決して罪への服従から離れ、生き方を一変させて神に服従するようになったのです。上辺だけの回心でここまでのことはできません。
6:18 そうです,あなた方は罪から自由にされ,そのゆえに義に対する奴隷となったのです。
神への従順とは神の義の基準に対する柔順であり、それはまたローマの信者たちのように神の教えに素直に聞き従う行為として表れるものなのです。
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