アダムとキリスト③(ローマ5:18-21)





5:18 こうして,一つの罪過を通してあらゆる人に及んだ結果が有罪宣告であったのと同じように,正しさを立証する一つの行為を通してあらゆる人に及ぶ結果もまた,命のために彼らを義と宣することなのです。

12-14節ではアダムとキリストの類似点を、15-17節では両者の相違点を学ぶことができました。18-19節は12-17節のまとめとなっており、もう一度両者の類似点が述べられています。

アダムの一つの罪によって全人類は罪人と宣告されました。




5:18 こうして,一つの罪過を通してあらゆる人に及んだ結果が有罪宣告であったのと同じように,正しさを立証する一つの行為を通してあらゆる人に及ぶ結果もまた,命のために彼らを義と宣することなのです。

それと同じくキリストの一つの義なる行為によって全人類には命に至る義が与えられました。ここでいうキリストの「正しさを立証する一つの行為」には、イエスの死だけでなくその全生涯も含まれると見ることができるでしょう。

なおここでは義と宣言するという結果が「あらゆる人に及ぶ」といわれていますが、むろんこれを受け取るかどうかは各自が決めることですから、もし人が不信仰になるのであれば当然その恩恵は及ばなくなるでしょう。




5:19 一人の人の不従順を通して多くの者が罪人とされたのと同じように,一人の方の従順を通して多くの者が義とされるのです。

19節ではアダムの「罪過」とキリストの「正しさを立証する行為」がそれぞれ「不従順」と「従順」に言い換えられています。アダムは神の命令に背くことにより神への不従順を示し、これによってすべての人間を罪人に定めました。人間が死ぬようになったのは全人類が罪人とされたからです。




5:19 一人の人の不従順を通して多くの者が罪人とされたのと同じように,一人の方の従順を通して多くの者が義とされるのです。

一方キリストは神への従順を生涯の初めから死に至るまで完璧に示し、(フィリピ2:7-8) これによってすべての人間に義とされた立場を与えました。

19節に出てくる「罪人とする(される)」と「義とする(される)」の「する」はギリシャ語kathistémiの訳語です。この語は「任命する」や「指定する」といった意味を持っています。アダムは良くない意味で罪人の資格を人類に付与し、キリストは義人の資格を人類に付与してくださったということです。

アダムの不従順のせいで全人類が罪人とされたことに納得できない人もいるでしょう。確かにわたしたちがアダムの罪の結果を被らなければならないのは不条理ですし、自由意志に反するようにも思えます。

しかしわたしたちはキリストがこの不幸を完全に覆してくださったことに目を向けなければなりません。キリストの従順のおかげで人類に対する神の怒りが解消し、わたしたちの罪が許されたこと。またこれを信じる人が自分の価値や能力と関係なく義とされ、罪と死の支配から義と命の支配に移されたということ。これらの祝福を思うとき、わたしたちはアダムが生み出した不幸を忘れるほどに希望と喜びに満ちた生活を歩むことができます。アダムの罪の結果をいやというほど思い知らされるときは、それ以上にキリストの義の効果が自分自身に及んでおり、あり余るほどのその恵みに満たされているということを思い出したいものです。




5:20 さて,律法は,罪過が満ちあふれるために入り込んで来ました。

アダムとキリストの関係を把握すると一つの疑問が生じるかもしれません。すなわち「その間に与えられたモーセの律法はいったい何だったのか」という疑問です。もし人が義なる行為と関係なくキリストによって義とされるのであれば、律法を几帳面に守る努力は無駄ですし、ややもすると律法自体が無意味なものにさえ思えてくるわけです。そこでパウロはこの問いに答えます。

律法が与えられた理由、それは人間に自己の罪の大きさを自覚させることでした。律法は何が善で何が悪かを判断する明確な基準であり、律法があれば罪は罪としてはっきり認識されます。律法はアダムの罪の上に積み重ねられた個々の人間の罪までも明るみに出し、こうしてこの世界に「罪過が満ちあふれる」ようにしました。




5:20 しかし,罪が満ちあふれたところでは,過分のご親切がなおいっそう満ちあふれました。

とはいえ律法が与えられた理由の根底に神の愛があることを見落としてはなりません。律法を守ろうと力を尽くすほど罪は増しますが、罪が増せば増すほど罪の許しという過分の親切も大きくなっていくのであり、まさにこの目的ゆえに神はあえて罪が世に満ちるように取り運ばれたのです。罪自体は望ましいものではありませんが、罪が深いほどそこに示される神の賜物も大きいのです。そう考えると、律法を守ろうとする努力が無駄ではなく神の恵みの深さを知るうえで必要なものだったという真理が見えてきます。




5:21 何のためですか。罪が死を伴って王として支配したのと同じように,過分のご親切もまた,わたしたちの主イエス・キリストを通して来る永遠の命の見込みを伴いつつ,義によって王として支配するためでした。

人間は神の過分の親切によって義とされるまで罪に支配されていました。人類は罪の奴隷となり、最終的には死ぬという定めの中に閉じ込められていたのです。




5:21 何のためですか。罪が死を伴って王として支配したのと同じように,過分のご親切もまた,わたしたちの主イエス・キリストを通して来る永遠の命の見込みを伴いつつ,義によって王として支配するためでした。

しかし神の恵みが義によって支配するようになったことでわたしたちは罪の許しを得、罪と死に打ち勝ってその支配から脱することができました。結果として与えられたのは「永遠の命」です。

5章ではアダムによる死とキリストによる命が対比されてきましたが、ここに至って掲げられているのはキリストの名だけです。人類はアダムの罪によって長大な期間苦しみを味わってきましたが、神の恩恵によって最後にもたらされるのは「わたしたちの主イエス・キリストを通して来る」命なのです。神は人類をこの永遠の命に導くために律法によって罪を増し加え、それに伴って恵みが満ちあふれるようにされました。