アダムとキリスト②(ローマ5:15-17)





5:15 しかし,賜物の場合は罪過の場合と異なっています。

全人類に及ぼした影響の点でキリストとアダムには類似点がありました。しかし及ぼした影響の性質や内容の点でキリストはアダムと大いに異なっています。15-17節でパウロは両者を比べつつもキリストの行為がアダムの行為に対して比較できないほど優れていることを際立たせます。




5:15 一人の人の罪過によって多くの者が死んだのであれば,神の過分のご親切と,一人の人イエス・キリストの過分のご親切を伴う神の無償の賜物とは,いよいよ多くの者に満ちあふれるからです。

両者にはまず全人類に及ぼした効果の豊かさの点で違いがあります。




罪は基本的に「満ちあふれる」性質を有しません。罪は人間が起こす行為であり、その人間自体が有限の影響力しか持っていないからです。

しかし罪ですらアダムが一度犯しただけで全人類に瞬く間に広がり、世界を覆うほどの効果を及ぼしました。現にだれ一人罪の結果である死から逃れられません。これほど強い罪の支配が世界にみなぎりあふれています。




5:15 一人の人の罪過によって多くの者が死んだのであれば,神の過分のご親切と,一人の人イエス・キリストの過分のご親切を伴う神の無償の賜物とは,いよいよ多くの者に満ちあふれるからです。

それでは御子を遣わしてくださった神の過分の親切とキリストの恵みによる救いの賜物についてはどうでしょうか。過分の親切や賜物には本質的に「満ちあふれる」性質があります。無限の力を有する神から出るものだからです。ゆえに一度注がれただけでも限りない豊かさをもって満ちあふれる結果となるのです。

罪の結果でさえ人類にあまねく広がったのであれば、過分の親切の結果はもっと大きな影響力をもって全人類に行きわたり、浸透し、満ちあふれるようになるといえるのではないでしょうか。アダムの罪とキリストの恩恵の賜物には「一者から万人への効果」という同じ法則が働いています。しかし及ぶ効果の豊富さの点では後者のほうが卓越しています。

「満ちあふれる」と訳されたギリシャ語perisseuóは「水が容器からあふれ出る」ことを意味する語です。アダムの行為とキリストの行為を水に、世界を大きな容器に例えるとわかりやすいかもしれません。アダムのほうの水は容器をいっぱいにして止まりました。キリストのほうの水は容器をいっぱいにするだけでなくその後も止めどなく注がれ続け、ついには容器からこぼれるようになりました。一つの水流が大きな容器を満たした点では同じですが、水流の豊かさに違いがあるのは明らかです。




5:16 また,無償の賜物の場合は,罪をおかした一人の人を通して物事が作用した場合と異なっています。

アダムとキリストの対比は続きます。16節が両者の何を対比しているかという点については諸説ありますが、ここでは人類に与えた効果の方向が対比されていると解釈して話を進めたいと思います。つまり一方が負の効果を及ぼしたのに対し、他方は正の効果を及ぼしたということです。






5:16 裁きは一つの罪過から有罪宣告に至りましたが,賜物は多くの罪過から義の宣言に至ったからです。

アダムの罪のせいでわたしたちはみな「有罪宣告」を受けることとなりました。アダムは子孫である全人類を呪いと不幸に陥れ、永遠の滅びへの道に進ませたのです。これ以上にない負の遺産です。




5:16 裁きは一つの罪過から有罪宣告に至りましたが,賜物は多くの罪過から義の宣言に至ったからです。

一方キリストの賜物はアダムの罪のように不吉不幸なものではありません。むしろ罪を取り除いて人に「義の宣言」を付与するというすばらしい効果を及ぼすものです。しかも賜物自体はたった一つなのにそれによって取り除かれるのは無数の罪です。

アダムの罪過は人類に多くの罪を付け加えましたが、神とキリストの過分の親切は多くの罪を消し去るという祝福を人類に及ぼします。結果的にアダムはわたしたちに有罪判決を、キリストはわたしたちに無罪判決をもたらしたわけです。絶大な効果を人類に及ぼしたという点ではアダムもキリストも同じでした。しかしその効果の方向は正反対でした。




5:17 というのは,一人の人の罪過により,その人を通して死が王として支配したのであれば,まして,過分のご親切と無償の賜物である義とを満ちあふれるほどに受ける者たちは,一人の方イエス・キリストを通し,命にあって王として支配するからです。

一連の対比のうちの最後が17節です。15-16節に比べてアダムとキリストの差がより明確に強調されています。ここで対比されているのはアダムの罪とキリストの恵みが人類に与えた立場です。




「一人の人」アダムの罪のためにアダムと同じ罪を犯さないすべての人間も死の支配を受けるようになりました。




5:17 というのは,一人の人の罪過により,その人を通して死が王として支配したのであれば,まして,過分のご親切と無償の賜物である義とを満ちあふれるほどに受ける者たちは,一人の方イエス・キリストを通し,命にあって王として支配するからです。

ところがキリストの贖いを信じて過分の親切と義の賜物を受ける者たちは、死の隷属から解放されて永遠の命を受け、来たるべき神の王国で王として永遠に支配するようになります。

ここで注目すべき点があります。一般的に「死が王として支配する」の反対は「命が王として支配する」です。ところが聖書はそう言わず、むしろ「恩恵を受ける者たちが命にあって王として支配する」と言っています。これによりキリストの行為がアダムの行為と釣り合うどころかそれを超えてさらに上を行くものであることが示されています。

死に支配されることに比べれば命に支配されることが望ましいに決まっています。しかしクリスチャンの受ける祝福はそこに終わらず、むしろ永遠の命を与えられて自分自身が支配者となるのです。この大逆転ともいえる壮大な変化を与えてくださるのがイエス・キリストなのです。