神の愛の表れ(ローマ5:6-11)





5節の「神の愛」がどのようにわたしたちに表されたのかを教えているのが6-8節です。さらにその結果としてわたしたちに及ぶ恩恵を説明しているのが9-11節です。

なお3章21-26節では人類に与えられた神とキリストの恩恵が「神の義の表れ」という視点で説明されていましたが、5章6-11節ではその恩恵が「神の愛の表れ」という視点で説明されています。






5:6 実に,キリストは,わたしたちがまだ弱かった間に,不敬虔な者たちのため,定められた時に死んでくださったのです。

わたしたちはまず人類のために命をなげうった主イエス・キリストの愛に目を向けなければなりません。

キリストは罪という致命的な弱さを抱えたわたしたちをお見捨てになりませんでした。不敬虔で神の意志に沿うことのできないわたしたちを愛し、その愛ゆえに神の予定に従って「定められた時」に苦しみの杭につかれました。




5:7 義なる人のために死ぬ者はまずいません。

7-8節はキリストの愛がいかに貴いものであるかを悟る助けとなります。パウロは前提としてここに三種類の人を挙げます。「義なる人」と「善良な人」と「罪人」です。そして人間はこれらを前にしてどれほどの愛を示すことができるか、一方キリストはどうだったかという対比によって神の愛を際立たせています。




最初に挙げられているのは「義なる人」です。

これは正しいことを行う者であり、法や道徳にかなったことを行う点で落ち度のない者です。人はこのような者を称賛し、見倣うべき模範とするかもしれません。しかしこの者に代わって命を差し出す人ははたして存在するでしょうか。残念ながら「まずいない」と答えなければなりません。




5:7 もっとも,善良な人のためなら,あるいはだれかがあえて死ぬこともあるかもしれません。

次に挙げられているのは「善良な人」です。

義なる人との違いは、正しいことにとどまらず親切なことも進んで行うという点にあります。この者は親切で情け深いため人の心を動かす点で義なる人よりも優れていますし、この者に強い親しみや好意を持つ人も少なくないでしょう。とはいえ身代わりとなってこの者を助けるほどの愛を示しうる人はいったいどれほどいるでしょうか。残念ながらこの場合も答えは「あるかもしれない」程度です。

とにかく人間の愛はこれほどまでに小さいのです。「善良な人」のために命を惜しまない人さえ滅多におらず、「義なる人」のために命を惜しまない人に至っては皆無だというのです。であればどうして「罪人」のために進んで命をささげうる人間がいるでしょうか。




5:8 ところが神は,わたしたちがまだ罪人であった間にキリストがわたしたちのために死んでくださったことにおいて,ご自身の愛をわたしたちに示しておられるのです。

ところが人間の愛とは比べものにならないのが神の愛です。

神の独り子であるイエス・キリストは死の罰を受けるべきわたしたちのために命を捨て、これにより世に対する神の深い愛を表されました。(ヨハネ3:16、ヨハネ第一4:9-10) キリストは「善良な人」でも「義なる人」でもないわたしたちのために、神の独り子の貴い命と引き換えになる価値など何一つ持っていないわたしたち「罪人」のために死んでくださったのです。これこそ人類に対する史上最大の愛であり、真の愛そのものです。




5:9 それゆえ,わたしたちはキリストの血によって今や義と宣せられたのですから,ましてこの方を通して憤りから救われるはずです。

神の愛が示された結果わたしたちには数多くの祝福が及びます。キリストが罪の報いを受けて死んでくださったため罪人であるわたしたちは代わりに神から義と認められました。義なるキリストはご自身の血によってわたしたちを罪から清め、義なる者に変えてくださったのです。神の祝福はこのようにして現在すでにわたしたちに注がれています。




5:9 それゆえ,わたしたちはキリストの血によって今や義と宣せられたのですから,ましてこの方を通して憤りから救われるはずです。

義とされた結果わたしたちは終わりの日に下される神の裁きと永遠の滅びから守られます。神の右に座すキリストがわたしたちを神の憤りから救い出してくださるからです。神の祝福はこのようにして現在だけでなく将来にも及びます。この愛にとどまる限り絶対に安全です。






5:10 わたしたちが敵であった時にみ子の死を通して神と和解したのであれば,まして和解した今,み子の命によって救われるはずだからです。

罪の中にいる限り人類は神との敵対関係にあり、神の怒りの下にあります。それでもわたしたちはキリストの死によってこの敵対関係から脱出し、神と和解させていただくことができました。キリストの贖いの死には神の心を和らげる力、そして神の敵であったわたしたちを神に愛される者に変える力があります。こうして「み子の死を通して」わたしたちの救いが進行します。




5:10 わたしたちが敵であった時にみ子の死を通して神と和解したのであれば,まして和解した今,み子の命によって救われるはずだからです。

キリストの死がそれほどのことを成し遂げたのなら、復活したキリストの命がそれ以上のことを成し遂げる力を持たないはずがありません。いまや生けるキリストは偉大な大祭司としてわたしたちに代わって神に願い出、神との平和を得たわたしたちを最終的な救いまで導いてくださるのです。こうして「み子の命によって」わたしたちの救いが完成します。






5:11 それだけではありません。わたしたちはさらに,わたしたちの主イエス・キリストを通し,神にあって歓喜しています。

将来に救いが完成することを知っているわたしたちは、現時点でも神とキリストに感謝しつつ喜びと誇りを持って生きることができます。(コリント第一1:30-31




5:11 このキリストを通して,わたしたちは今や和解を授かったのです。

わたしたちはこの歓喜に満ちた誇りがただキリストを通して与えられたものであることを覚えなければなりません。すべての祝福はキリストが神との和解を成立させてくださったゆえにわたしたちに注がれているからです。