信仰によって義とされたアブラハム②(ローマ4:9-12)





4:9 では,この幸いは割礼を受けた人々に臨むのですか。

「業」によって義とされるのでないことはすでにアブラハムの例から学習しました。では「割礼」についてはどうなのでしょうか。そういった宗教的形式の具備が神から義と認められるうえで必要かどうかがここから論じられています。




4:9 それとも,無割礼の人々にもですか。

実のところ初期クリスチャン会衆には依然として割礼が必要だと考える人たちもおり、実際に彼らは無割礼のクリスチャンたちに対して「割礼を受けない限り救われない」と教えていたのです。(使徒15:1-2) とりわけユダヤ人出身のクリスチャンの中にそう唱える人が多くいました。




4:9 というのは,「アブラハムに対してその信仰は義とみなされた」と,わたしたちは言うからです。

確かにパウロは創世記156節を引用してアブラハムが信仰によって義と見なされたことを立証しました。ただ細かいことを言うと、彼が割礼と関係なく義と見なされたかどうかまではこの聖句で判断できません。もしかしたらユダヤ人クリスチャンが提唱するように「信仰『と割礼によって』義とされる」という話が本当なのかもしれません。そのため「義とされる幸いは無割礼者にも臨むのか」という疑問が残るわけです。




4:10 では,どんな事情のもとでそのようにみなされたのですか。彼が割礼を受けてからですか,それとも無割礼の時でしたか。

上記の疑問を解決するには創世記156節の背景を詳しく見るのが一番です。アブラハムが信仰ゆえに義とされたのは、彼が割礼を受ける前と後のどちらだったでしょうか。




4:10 割礼を受けてからではなく,無割礼の時です。

答えは「無割礼の時」、つまり割礼を受ける前です。アブラハムは創世記156節の時点で義とされ、その約14年後に割礼を受けたのです。(創世記17:1-27




4:11 そして彼はしるし,すなわち割礼を,無割礼の状態で得ていた信仰による義の証印として受けたのです。

ということは義とされる前提として割礼が必要だったわけではないことになります。義とされる前提はあくまで信仰であって、割礼は義とされた「しるし」または証しにすぎないのです。

ここまでの話を受けてわたしたちは、アブラハムが業によらず、割礼にもよらず、ただ信仰によって義とされたということをはっきり理解することができます。






4:11 それは,無割礼の状態で信仰を持つ人すべての父となり,その人たちが義とみなされるためでした。

結果的にアブラハムの割礼に関する歴史はアブラハムにおいて二重の意味を持つこととなりました。彼は割礼のあるユダヤ人の父となり、なおかつ割礼のない諸国民の父ともなったのです。11節ではアブラハムが諸国民の信仰上の父であること、12節では彼が信仰を持つユダヤ人の父でもあることが論じられています。




アブラハムは割礼を受けていない時に信仰により義とされました。

この事実は、現代においても無割礼でありながらクリスチャンとなる人がアブラハムと同じように義とされることを示すものであり、この点でアブラハムは血縁関係がないにもかかわらず無割礼の諸国民の父祖となったのです。




4:12 それで,彼は割礼のある子孫の父ですが,割礼を堅く守る者たちに対してだけでなく,無割礼の状態にありながら,わたしたちの父アブラハムが持ったあの信仰の足跡にそって整然と歩む者たちに対しても父なのです。

アブラハムはまた神から義と宣言された後に割礼を受けました。

この事実は、無割礼の時のアブラハムの信仰に倣うユダヤ人、つまり真の割礼者であるユダヤ人に対しても彼が父祖となったことを意味します。




4:12 それで,彼は割礼のある子孫の父ですが,割礼を堅く守る者たちに対してだけでなく,無割礼の状態にありながら,わたしたちの父アブラハムが持ったあの信仰の足跡にそって整然と歩む者たちに対しても父なのです。

もちろん割礼を受けているというだけでユダヤ人がみなアブラハムを信仰上の父として持てるわけではありません。彼の「足跡にそって整然と歩み」、その信仰の模範に従って初めてアブラハムを真の父と呼ぶことができるのです。