アブラハムの信仰の強さ②(ローマ4:23-25)
4:23-24 しかしながら,「彼に対してそれがそのようにみなされた」ということは,ただ彼のためだけでなく,同じようにみなしていただくことになっているわたしたちのためにも書かれたのです。
ここまではアブラハムに関する話でしたが、この話はわたしたちにとっても重要な意味があります。アブラハムは信仰によって義と宣言されましたが、わたしたちも同じく信仰によって義と宣言されるのです。
4:24 わたしたちは,わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせた方を信じて頼っているからです。
だれに信仰を置くかという点においてもアブラハムとわたしたちは同じです。約束の内容は違っても約束した神は同じだからです。
アブラハムは、いまだ実現の展望が見えない約束を待ち望みつつ神を信じました。しかしわたしたちは、イエスの復活というすでに実現した事実を根拠として神を信じることができます。パウロが神を「わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせた方」と表現しているのは、信仰を持つ点でわたしたちがアブラハムよりも有利な状況にあることを示唆するためなのでしょう。
アブラハムは神の約束の実現を疑ったりしませんでした。その約束に希望を持つことをあきらめたりもしませんでした。アブラハムが信じて疑わなかったのであれば、わたしたちはなおのことそうすべきではないでしょうか。
クリスチャンは自分が現に救われていること、そしてキリストが来られる時に神が救いを完成し、新しい天と新しい地を実現してくださることを信じなければなりません。それが人間的な観点では非現実的と思えるとしてもです。信仰はいかなる場合でも全能の神が対象となっているべきであり、そうである以上信じる内容によって強まったり弱まったりするようなものであってはならないのです。アブラハムの信仰の子孫であるわたしたちに求められるのは、聖書の約束の現実性を疑うことではなく、人間の判断を超越した神に絶対の信頼と心からの服従をささげることです。
4:25 イエスはわたしたちの罪過のために引き渡され,わたしたちを義と宣するためによみがえらされたのです。
イエスが死なれたのはわたしたちの罪を贖うためでした。わたしたちが受けるべき罪の罰を代わりに受けてくださったのです。
4:25 イエスはわたしたちの罪過のために引き渡され,わたしたちを義と宣するためによみがえらされたのです。
さらにイエスがよみがえられたのはわたしたちを義と宣言するためでした。(コリント第一15:17-19)
神に信仰を持つということはとりもなおさず罪の贖いと義とされた事実を信じるということです。神がアブラハムを義とされたのは、彼が抜きん出た努力家だったからでも、彼に高潔な身分があったからでもありません。アブラハムも生涯中に数多くの過ちを犯したに違いありませんが、「不敬虔な者を義と宣する方」はそのような彼の過ちではなく、彼の心にある神への信頼に目を留め、その信仰ゆえに彼を義と認められたのです。神とともに歩んだ長い年月の中でアブラハムは神の愛と恵み深さを体感し、それによって彼の信仰は一層深まったことでしょう。
わたしたちも神がキリストにおいて行ってくださったことを知ることにより、その愛と恵み深さを味わい、信仰と献身の思いを深めることができます。それゆえにも25節で述べられていること、すなわち罪の贖いと義とされた事実を信じることはクリスチャンとしての歩みにおいて非常に重要なことといえるのです。
神に信仰を持つということはとりもなおさず罪の贖いと義とされた事実を信じるということです。神がアブラハムを義とされたのは、彼が抜きん出た努力家だったからでも、彼に高潔な身分があったからでもありません。アブラハムも生涯中に数多くの過ちを犯したに違いありませんが、「不敬虔な者を義と宣する方」はそのような彼の過ちではなく、彼の心にある神への信頼に目を留め、その信仰ゆえに彼を義と認められたのです。神とともに歩んだ長い年月の中でアブラハムは神の愛と恵み深さを体感し、それによって彼の信仰は一層深まったことでしょう。
わたしたちも神がキリストにおいて行ってくださったことを知ることにより、その愛と恵み深さを味わい、信仰と献身の思いを深めることができます。それゆえにも25節で述べられていること、すなわち罪の贖いと義とされた事実を信じることはクリスチャンとしての歩みにおいて非常に重要なことといえるのです。
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