アブラハムの信仰の強さ①(ローマ4:16-22)





アブラハムの信仰は神の祝福を受ける根拠となりました。その信仰はどれほど強いものだったのでしょうか。パウロは16-22節でアブラハムの信仰の質に着目します。またアブラハムの例がわたしたちに及ぼす影響が23-25節で述べられています。わたしたちにはひときわ大きな注意を払ってアブラハムの信仰に注目すべき理由があります。




4:16-17 (彼はわたしたちすべての父であり,「わたしはあなたを任じて多くの国の民の父とした」と書かれているとおりです。)

アブラハムが神に信仰を置く人すべての父であることは12節で学びましたが、そのことはまた神によってはるか以前に約束されていたことでもありました。創世記175節に「わたしはあなたを任じて多くの国の民の父とした」と書いてあるとおりです。神はその約束を「父とした」と過去形で述べ、まだ実現していないにもかかわらず確定した事実として語られたのです。




4:17 これは,彼が信仰を抱いていた方,すなわち,死人を生かし,無い物を有るかのように呼ばれる,その神のみ前においてのことでした。

ゆえにアブラハムは「神のみ前において」、神に認められてわたしたちの父となりました。わたしたちも神に認められてアブラハムの子とされています。




4:17 これは,彼が信仰を抱いていた方,すなわち,死人を生かし,無い物を有るかのように呼ばれる,その神のみ前においてのことでした。

それにしてもアブラハムが神の約束を信じることができたのはなぜでしょうか。18節以降で詳しく見ていきますが、神がアブラハムと交わされた「あなたを多くの国の民の父とする」という約束は、現実的な観点で考える限りアブラハムにとっては非常に信じがたい内容のものでした。ゆえに彼がそのような約束さえ信じ抜くことができた理由については考察する価値があります。

アブラハムが神の約束を信じた一つ目の理由、それは約束したのが「死人を生かす」方であることを知っていたことです。

アブラハムは神の全能性に全幅の信頼を寄せていました。神は意のままに死者を復活させることさえおできになると信じていたのです。独り子イサクをいけにえにするよう命じられた時も、アブラハムはイサクを生き返らせる神の力を一途に信じ、その確信を行動で示しました。(ヘブライ11:17-19) もし死人を生かす神の能力を信じることができなければ、彼は独り子をささげるという信仰の試みに耐えられなかったでしょう。




4:17 これは,彼が信仰を抱いていた方,すなわち,死人を生かし,無い物を有るかのように呼ばれる,その神のみ前においてのことでした。

アブラハムが神の約束を信頼したもう一つの理由は、神を「無い物を有るかのように呼ばれる」方として信じていたという点にあります。

神は子供のいないアブラハムに対して「あなたは無数の人々の父祖となる」と宣言されましたが、それはまるで「無い」はずの子孫が神の計画の中では「有る」かのようでした。すべてを可能にする神の前ではまだ存在していないものもすでに存在しているのと同じであり、まさにこのことをアブラハムは切に信じたのです。




4:18 達しがたい希望ではありましたが,それでも希望をよりどころとして彼は信仰を抱きました。

アブラハムの信仰は不屈でした。彼は一見かないそうもない神の約束をひたすら待ち望み、その「希望をよりどころとして」神の約束が絶対に果たされると確信したのです。彼が希望を抱きつつ神を信じたこと。そしてその希望の内容が望むべくもないものだったこと。ここが彼の信仰の強さを物語るポイントです。




4:18 それは,「あなたの胤もそのようであろう」と言われたところにしたがって,彼が多くの国の民の父となるためでした。

神はアブラハムの信仰を確かに見、その信仰を喜び、約束に従って彼を多くの国民の父とされました。創世記155節で約束された「あなたの胤も天の星の数ほどになるであろう」という神の言葉がそのとおりになったのです。




4:19 そして彼は,信仰においては弱くなりませんでしたが,およそ百歳であったので,自分の体がすでに死んだも同然であること,またサラの胎が死んだ状態にあることを思い見ました。

どうして神の約束はアブラハムにとって「達しがたい希望」だったのでしょうか。

実はその約束が与えられた時アブラハムはおよそ100歳で、しかも子供がいませんでした。アブラハムと妻のサラは生殖能力を失った老夫婦でしかなく、子孫の繁栄はおろか子供一人を生むことすら絶望的でした。神の約束についてかないそうにないと思ったとしても無理はなかったでしょう。身体も衰弱に向かっており、普通の人間なら弱気になっただろうと思われる状況でしたが、そのような中でさえアブラハムの信仰は一向に弱まることがなかったのです。




4:20-21 しかし,神の約束のゆえに,信仰を欠いてたじろいだりすることなく,むしろ信仰によって強力になり,神に栄光を帰し,また,神はご自分の約束した事を果たすこともできるのだと十分に確信していました。

どんなに実現の可能性が低く思えても、アブラハムは神の約束を疑うことなく信じ続けました。

「たじろぐ」と訳されたギリシャ語diakrinóは基本的に「二つの相反する考えの間で動揺する」ことを意味し、さらには「疑う」や「躊躇する」などの意味も含みます。アブラハムは「神の約束は必ず果たされる」と強く信じていたため自分とサラの境遇を見ても不安に揺れたりしませんでした。




4:20-21 しかし,神の約束のゆえに,信仰を欠いてたじろいだりすることなく,むしろ信仰によって強力になり,神に栄光を帰し,また,神はご自分の約束した事を果たすこともできるのだと十分に確信していました。

アブラハムの信仰は弱まるどころか逆に強化されていき、強力になったその信仰で彼は二つのことを行いました。

一つ目は不可能にも思えることを約束した神を軽蔑せず、かえって心から服従することによって「神に栄光を帰す」ことです。二つ目は約束された以上神は必ずこれを成し遂げられると「十分に確信し」、すべてを神の手にゆだねることです。




4:22 ゆえに,「彼に対してそれは義とみなされた」のです。

何と偉大な信仰でしょう。この信仰があれば他に何もいらないと判断した神は、その信仰ゆえにアブラハムを義と認められたのです。