信仰によって約束を受けたアブラハム(ローマ4:13-16)





アブラハムが義と宣言されたのは彼が神に信仰を置いたからでした。神はその信仰ゆえに彼に「義」だけでなく「約束」もお与えになります。




4:13 というのは,世の相続人となるという約束をアブラハムとその胤が得たのは,律法を通してではなく,信仰による義を通してであったからです。

神はアブラハムとその子孫に対してカナンの土地を与えると幾度となく約束されましたが、(創世記12:1-7、創世記13:14-17、創世記15:18-19、創世記17:1-8、創世記22:15-18、創世記26:1-5) これは神がアブラハムの信仰を良しとされたゆえに与えられた約束でした。

アブラハムは神の約束によってカナンを譲り受けることとなっていましたが、その約束が意味していたのは彼がカナンの土地だけでなく世界さえも相続するようになるということでした。アブラハムの子孫はカナンの地から全世界に広がり、こうしてアブラハムがすべての国民の父として「世の相続人」と呼ばれることになっていたのです。




4:13 というのは,世の相続人となるという約束をアブラハムとその胤が得たのは,律法を通してではなく,信仰による義を通してであったからです。

アブラハムへの約束は律法が存在するよりずっと前に与えられたものですから、その約束が律法を守ったことの報いとして彼に授けられたわけでないことは確かです。(ガラテア3:15-18) むしろアブラハムは神の過分の親切と賜物に対する信仰、そして神の約束への信頼ゆえに相続人とされたのです。




4:14 律法を堅く守る者たちが相続人であるのなら,信仰は無用となり,その約束は廃棄されたことになります。

もし人が律法の業ゆえに相続人となるのであれば、次の二つが事実となります。




第一は「信仰が無用となる」ことです。

律法によって約束を受けるのか、それとも信仰によって受けるのか。これは常に二つに一つです。もし律法を堅く守る人が神の約束を手に入れるというのなら、律法の行いが信仰に取って代わることになり、信仰ゆえに人が神の約束にあずかるという原理はたちどころに意味を失います。




4:14 律法を堅く守る者たちが相続人であるのなら,信仰は無用となり,その約束は廃棄されたことになります。

第二は「約束が廃棄される」ことです。

「約束」とは、罪人をその行いにかかわらず祝福する神の恩恵のことであり、それが成就するかどうかはすべて神の意志にかかっています。つまり約束は神が宣言された以上絶対に実現します。しかしその祝福が律法を堅く守ることで獲得するようなものであればどうでしょうか。それが成就するかどうかは当人の行いにかかっていることとなり、そうなれば絶対に実現するという保証も失われてしまうのです。




4:15 実際のところ,律法は憤りを生じさせ,律法のないところには違犯もないのです。

神は律法の行いによって祝福を勝ち取ろうとする行為を喜ばれません。そもそも人間は不完全ですから、律法を自力で守ろうとする努力の先には必ず違反が待ち受けています。そしてその違反の上には必ず神の憤りが注がれます。当然神の約束を受け継ぐどころの話ではなくなります。

パウロはここで「律法のないところには違犯もない」と述べていますが、確かに律法を完全に守れる人間はこの世にいないため「違反のない状態は律法のない場所にしか存在しない」と言っても過言ではありません。




4:16 このような訳で,それは信仰の結果でした。

行いによって神の約束を手に入れることができないとすれば、あとは神の恵みに頼るしか方法がありません。アブラハムの場合がまさにそうでした。彼は神が恵みによって約束してくださった祝福を本気で信じて頼り、その「信仰の結果」として「世の相続人」となったのです。




4:16 それが過分のご親切によるものとなって,その約束が彼の胤すべてに,すなわち,律法を堅く守る者だけでなく,アブラハムの信仰を堅く守る者に対しても,確かなものとなるためでした。

律法の業に頼る者は神の約束を受け継ぐことができません。約束を受け継ぐのは神の過分の親切に頼る者だけです。

神はアブラハムを業ではなく信仰ゆえに祝福されましたが、それはその祝福をもっぱらご自身の過分の親切に基づくものとして与えたいと思われたからでした。人間側の努力を条件として交わされる約束は不確かですが、神の過分の親切を基盤として与えられる約束は不変です。それゆえにアブラハムが受けた約束は彼の子孫たちに対しても代々にわたり確実に成就し続けると確信できるのです。




4:16 それが過分のご親切によるものとなって,その約束が彼の胤すべてに,すなわち,律法を堅く守る者だけでなく,アブラハムの信仰を堅く守る者に対しても,確かなものとなるためでした。

ただしここでいう「彼の胤」とはあくまでアブラハムの信仰に倣う者たちのことです。これは信仰があればユダヤ人だけでなく非ユダヤ人もその約束にあずかる見込みがあることを意味します。