信仰によって義とされたアブラハム①(ローマ4:1-8)
信仰によって義とされることを3章21-31節で論じたパウロは、その論拠となる例をヘブライ語聖書から探し、なかでもアブラハムの信仰に関する記録が最もよい例であることを発見しました。ヘブライ語聖書を根拠にして論じることはユダヤ人に対して効果的な方法でした。それでパウロは4章でアブラハムの信仰に焦点を当て、この事例を通して人が信仰ゆえに義とされることを証明していきます。
4章の構成は次のとおりです。アブラハムが義とされたのは信仰ゆえであること、これが1-12節の論点です。またアブラハムが約束を受けたのも信仰ゆえであること、これが13-16節の論点です。そしてアブラハムの信仰が非常に強いものだったこと、これが16-25節の論点です。
なお1-12節は、前半の1-8節でアブラハムが「業」と関係なく義とされたことが、後半の9-12節で「割礼」とも関係なく義とされたことが論じられているものと見て読むことができるでしょう。
4:1 そうであれば,肉によるわたしたちの父祖アブラハムについて何と言えばよいでしょうか。
アブラハムはユダヤ人の先祖ですから、ユダヤ人はアブラハムについて聖書が語る真理に当然注意を払うことでしょう。
ユダヤ人はアブラハムが自分たちの父祖であることを誇りに思っていましたが、パウロはここで「アブラハムは自己の努力や特別な身分によって誇るべきものを手にしたのだろうか」と問いかけています。
4:2 例えば,もしアブラハムが業の結果義と宣せられたのなら,彼には誇る根拠もあったことでしょう。
仮にアブラハムが立派な行いゆえに義とされたのであれば、それは彼の功績です。アブラハム自身がそのことを誇ってもさして問題ありません。
4:2 といっても,神に対してではありません。
しかしそれは「神に対して」できないことだとパウロは言います。なぜでしょうか。ここに直接の回答はなく、そのまま3節に続きます。
4:3 聖句は何と言っているでしょうか。「アブラハムはエホバに信仰を働かせ,彼に対してそれは義とみなされた」。
ギリシャ語原文を見ると、3節は「なぜなら」で始まっています。つまり3節は「アブラハムも神に対して誇ることはできない」という2節の主張の理由を説明した箇所ということです。
パウロは創世記15章6節を引用し、アブラハムが義人と認められたのは彼がただ神を信じたからであるということを証明しています。神の約束に絶対の信頼を寄せて服従すること。これが「信仰を働かせる」ということであり、クリスチャンが持つべき信仰も基本的にはこれと同じです。アブラハムはユダヤ人から尊敬されていた人物ですが、このアブラハムが行いによらず信仰によって神に認められたという事実は注目を要します。
4:4 さて,働く人に対して,給料は過分の親切ではなく,債務とみなされます。
ここで社会一般の考え方に立ち、「行いによって義とされること」と「行いによらず義とされること」の違いを考えたいと思います。
もし人が行いによって義とされるなら、それはどんな意味を持つでしょうか。これはちょうど働いた者が受け取る給料と同じ意味を持ちます。受け取って当たり前のもので、取り立てて恩恵と言うほどのものではありません。
もし人が行いによって義とされるなら、それはどんな意味を持つでしょうか。これはちょうど働いた者が受け取る給料と同じ意味を持ちます。受け取って当たり前のもので、取り立てて恩恵と言うほどのものではありません。
4:5 他方,業を行なわなくても,不敬虔な者を義と宣する方に信仰を置く人に対しては,その人の信仰が義とみなされるのです。
もちろん神が人間に債務を負うようなことはありえません。そもそも人間には何かの働きによって神に恩を与えることなどできるはずもないからです。
それでも神はそのようなわたしたちを行いによらずに、つまり引き換えとなる行為を一切要求することなく義としてくださるというのです。もし神が行いを要求することなく人間に義を与えてくださるのであれば、それはまさしく「過分の親切」であり、本来受け取る権利のないわたしたちにとっては分不相応で身に余る恩恵だとしか言いようがありません。
しかも神は業を行えない者ばかりか「不敬虔な者」にさえも義を与えてくださいます。そのような者が神の約束と力に絶対的な信頼を置くとき、神はただその信仰を認めてその人を無罪と宣言してくださるのです。
それでも神はそのようなわたしたちを行いによらずに、つまり引き換えとなる行為を一切要求することなく義としてくださるというのです。もし神が行いを要求することなく人間に義を与えてくださるのであれば、それはまさしく「過分の親切」であり、本来受け取る権利のないわたしたちにとっては分不相応で身に余る恩恵だとしか言いようがありません。
しかも神は業を行えない者ばかりか「不敬虔な者」にさえも義を与えてくださいます。そのような者が神の約束と力に絶対的な信頼を置くとき、神はただその信仰を認めてその人を無罪と宣言してくださるのです。
4:6-8 ダビデも,神が業を別にして義とみなしてくださる人の幸いについて語っているとおりです。「その不法な行ないを赦され,罪を覆われた者は幸いである。エホバがその罪を考慮に入れることのない人は幸いである」。
パウロは不敬虔な者さえも義とするという神の約束が真実であること、そしてこれを経験する者が真に幸いであるということをヘブライ語聖書から証明します。4章ではずっとアブラハムが例として取り上げられていますが、6-8節ではヘブライ語聖書中の第二の信仰の人であるダビデが例として取り上げられています。
4:6-8 ダビデも,神が業を別にして義とみなしてくださる人の幸いについて語っているとおりです。「その不法な行ないを赦され,罪を覆われた者は幸いである。エホバがその罪を考慮に入れることのない人は幸いである」。
パウロが引用したのは詩編32編1-2節で、この部分は罪を許された喜びをダビデが記した箇所となっています。ダビデは生涯中に一度ならず大きな罪を犯し、その罪によって幾度も罪悪感にさいなまれましたが、神はそのような彼をご自身の予定の中にあった贖いの計画に基づいて許し、もうその罪を心に留めないこととされたのです。神から罪と不法を許されたダビデは本当に大きな幸福と安堵を覚えたのではないでしょうか。
わたしたちの場合も神は「罪を覆う」、すなわち罪をもはや見ないようにしてくださいます。また「罪を考慮に入れない」、すなわち罪ではなくその人の悔い改めや信仰を最大限に考慮し、それにより義憤を和らげてくださいます。これこそ神の過分の親切であり、これを経験する者こそ本当に幸福な者です。
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