全人類の罪①(ローマ3:9-18)





諸国民もユダヤ人も罪の下にいることはすでに明らかです。9-20節は罪に関する一連の教理のまとめであり、全人類が罪人であることを指摘した箇所となっています。なかでも10-18節ではヘブライ語聖書が多数引用されており、罪のない人間など一人も存在しないことが厳然と示されています。




3:9 ではどうなのですか。わたしたちは勝った立場にいるのですか。

パウロはもう一度1節のようにユダヤ人であることの利点を問います。




3:9 決してそうではありません! わたしたちはすでに,ユダヤ人もギリシャ人もみな罪のもとにあるとの告発をしたのです。

2節では確かにユダヤ人の利点として「神の神聖な宣言を託されたこと」が挙げられていました。しかしユダヤ人たちはその特権さえも不信仰ゆえに無駄にしました。それで結果的に彼らには諸国民に比べて何も勝ったところがないことになっています。

逆に諸国民(ギリシャ人は諸国民を代表している)がユダヤ人よりも優れているかというと、それも違います。パウロはすでに118-32節で諸国民の罪を、2章から38節まででユダヤ人の罪を論じました。

どちらの部類の人間も単に罪を持っているというのではありません。「罪のもとにある」、すなわち完全に罪の奴隷状態にあるのです。すべての人間が神の裁きを受けなければならないことは明白です。




3:10-12 こう書かれているとおりです。「義人はいない,一人もいない。洞察力のある者はいない,神を探し求める者はいない。すべての人が道からそれ,みな共に価値のない者となった。親切を行なう者はいない,一人すらいない」。

パウロは全人類の罪深さを多方面から示すため詩編やイザヤ書から複数の聖句を引用しています。これらはすべてセプトゥアギンタ訳からの自由な引用であるためヘブライ語聖書の言葉とは厳密に一致していないことに注意が必要です。

引用されている聖句はどれも全人類が罪の支配下にあることを証明するためのものですが、詳しく見ていくと四種類の罪深さが各聖句で浮き彫りにされていることがわかります。心について、言葉について、行動について、目についての四種類です。






3:10-12 こう書かれているとおりです。「義人はいない,一人もいない。洞察力のある者はいない,神を探し求める者はいない。すべての人が道からそれ,みな共に価値のない者となった。親切を行なう者はいない,一人すらいない」。

まず心の罪深さです。

パウロはこれを証明するために詩編141-3節(または詩編531-3節)を引用します。この詩編は「義人は一人もいない」という言葉で始まっていますが、確かに神の前に義なる者、罪に関してまったく潔白な者はキリストを除いて一人もいません。人間は神についての完全な理解を持つことができず、また完全な信仰心をもって神を求めることもできません。みな罪深さの中で迷っており、堕落しているからです。




3:10-12 こう書かれているとおりです。「義人はいない,一人もいない。洞察力のある者はいない,神を探し求める者はいない。すべての人が道からそれ,みな共に価値のない者となった。親切を行なう者はいない,一人すらいない」。

また人間はだれしも心に自己中心的な傾向を抱えています。ゆえに「自分はいつも親切を行っている」と自負できる人はいません。




3:13 「そののどは開かれた墓,彼らは舌で欺まんを弄した」。

次に言葉の罪深さです。

パウロはこれを証明するためにまず詩編59節を引用します。墓が開かれていると腐敗臭が立ちこめますが、それと同様に人間の口からは忌まわしい臭気のような欺きの言葉が出てきます。




3:13 「毒へびの毒が彼らの唇の裏にある」。

また詩編1403節も引用します。人を傷つける蛇の毒のような言葉を発してしまうこともよくあるものです。




3:14 「またその口はのろいと苦いことばで満ちている」。

さらに詩編107節も引用しています。人はだれしも悪意をもって他人を呪うことがあります。




3:15 「彼らの足は血を流すのに速い」。

次いで行動の罪深さです。

パウロはこれを証明するためにイザヤ597-8節を引用します。流血は人類の犯してきた大罪であり、人間社会の歴史そのものでもあります。




3:16-17 「破滅と悲惨が彼らの道にあり,彼らは平和の道を知らない」。

戦いと流血の後には「破滅と悲惨」しか残りません。そこには平穏も平和を愛する心もありません。




3:18 「彼らの目の前に神への恐れはない」。

最後は目の罪深さです。

パウロはこれを証明するために詩編361節を引用します。神を愛さない人の中にも神を恐れる心だけは少なからず持っているという人がいますが、こういった人の場合は神への愛がなくても恐れが歯止めとして働いて罪を犯すに至らないことがあります。しかし神への恐れさえも失ってしまえば、人はもはや何にも抑止されずに悪事に走るという最も悲惨な状態に陥ることになります。

結局のところ罪は人が神への恐れの欠けた観点で行動するところから始まります。個人が犯す罪も社会全体に蔓延する罪も、すべては人間が神を無視することによって起こるのです。