人間の不義と神の義②(ローマ3:5-8)





3:5 しかしながら,わたしたちの不義が神の義を際立たせるのであれば,わたしたちは何と言えばよいのでしょうか。

ユダヤ人の罪が神の真実を実証する機会となったと聞けば、彼らはさらに別の角度から反論するでしょう。ユダヤ人の側から起こりうる三つ目の異議は「神の義を引き立てる機会を与えたユダヤ人は逆に褒められるべきではないか」です。




3:5 神が憤りを発しても不当であるわけではないでしょう。

裏を返せば「ユダヤ人の不信仰に対する神の憤りは不当ではないか」ということです。




3:5 (わたしは人間がするような言い方をしているのです。)

人間は概して以上のように推論し、「もし自分たちの悪が神の栄光を明らかにするのに役立ったのであれば、その自分たちが罰せられるのはおかしい」と考えるものです。

しかしあくまでこれは人間一般の考えを仮定したものであって、パウロ個人の意見ではなかったため、彼はここで「わたしは人間がするような言い方をしている」だけであると断りを入れます。




3:6 断じてそのようなことはないように! そうでなければ,神はどのようにして世を裁くのですか。

神が不義であるなどと口にすることはパウロにとって考えるだけでも恐ろしいことでした。

ユダヤ人はこの世に対する神の裁きを正当なものと認めていました。であれば不信仰な自分たちへの裁きも正当であると認めなければなりません。もしそれを認めないのであれば、神は一切世を裁くべきでないといっていることになります。

罪は罪である以上裁かれるべきですし、その裁きを下す神も正しいことをしておられると認めるべきです。

確かに神の義や恵みは人類の罪によって一層明らかにされます。神は偉大な知恵を働かせ、人類の罪さえもご自身の栄光のために利用されるのです。これはユダヤ人の歴史を見ると明白ですし、人類の歴史においても事実です。神はアダムの堕落をキリストによる救いの計画に取り込み、ユダヤ人の反逆をイエスの苦しみと死の引き金とし、ユダヤ人の不信仰を諸国民への宣教に利用していかれましたが、これは神の計り知れない知恵の表れでした。

しかしそのことと罪の裁きは別問題です。人間の不義が神の栄光を表す機会になったとしても、罪が罪でなくなるわけではありませんし、罪を裁く神が不義であるという結論になるわけでもありません。




3:7 しかしながら,もしわたしの偽りのゆえに神の真実さがいよいよ引き立って神の栄光となったのであれば,なぜわたしはなおも罪人として裁かれているのですか。

大半の人はここまで神の正義に盾突こうとはしないかもしれませんが、パウロはこれでもなお神の正義を認めない人がいるであろうことを想定し、さらに議論を続けます。ユダヤ人の側から起こりうる四つ目の異議は「結局のところ不信仰なユダヤ人に裁かれる筋合いなどないのではないか」です。




3:8 そしてなぜ,わたしたちが言いがかりを受け,わたしたちがそう唱えているとある人たちが言うとおり,「良いことが来るように悪いことをしよう」と言わないのですか。

上記の異議に加えて「神の義をさらに引き立てるようもっと悪を行うべきではないのか」と考える人も出てくるかもしれません。

これは5節にあったような「神の義を引き立てる機会を与えたユダヤ人は逆に褒められるべきではないか」という意見よりもさらに大胆で厚顔無恥な主張です。自分の罪深さを認識しない者は、罪により神の栄光が増し加わると聞くとそれを口実にして罪を正当化し、そればかりかさらに大胆な態度で悪を行い始めるのです。




3:8 そしてなぜ,わたしたちが言いがかりを受け,わたしたちがそう唱えているとある人たちが言うとおり,「良いことが来るように悪いことをしよう」と言わないのですか。

もちろんパウロは悪を行うよう勧めたりはしていませんでした。むしろそのような考え方の誤りを正し、神の義を擁護するためにこの手紙を書いています。ところがある人たちはパウロがそう教えていると言いがかりをつけたうえで「良いことが来るように悪いことをしよう」と言い、まるで自分たちの行動をパウロが支持しているかのような印象を与えようとさえしていました。




3:8 そうした人たちに対する裁きは正当なものです。

四つ目の異議ついてはもはや主張自体が論外です。そこでパウロは「そのように考える人が神に罰せられるのは当然だ」と言うにとどめます。