信仰による義(ローマ3:27-31)





21-26節で学んだとおり人を義とするために神が与えてくださったのはキリスト・イエスの贖いでした。27-31節はその結果わたしたちに求められているのがキリストへの信仰であることを教えています。




3:27 では,誇るところはどこにあるのでしょうか。

人が義とされることはすべて神の業です。そうである以上わたしたちに何か誇る余地があるでしょうか。




3:27 そのようなことは締め出されているのです。

「締め出される」と訳されているギリシャ語ekkleióの語義は「錠によって家の外に閉め出される」です。要は「誇る余地など何もない」ということです。




3:27 どんな律法によってですか。

どんな理由で誇る余地は取り除かれたというのでしょうか。

なお「律法」と訳されたギリシャ語nomosは多くの場合モーセを通してイスラエルに与えられた律法を指しますが、ここでは「法則」や「道理」などの意味で使われています。




3:27 業の律法ですか。

諸国民にはもともと神の前で誇る余地などありませんでした。自分の義を誇っていたのはユダヤ人のほうです。

本来ユダヤ人の誇りの間違いを気づかせる役割を担っていたのは「業の律法」、すなわちモーセ律法をはじめとするヘブライ語聖書の諸原則だったはずです。19節にあったようにヘブライ語聖書はユダヤ人に対して書かれたものであり、その書自体が「義人は一人もいない」と言っていました。では「業の律法」はユダヤ人の誇りを取り払うことができたでしょうか。




3:27 決してそうではありません。信仰の律法によってです。

残念なことに「業の律法」はユダヤ人に自分たちの罪深さを学ばせることができませんでした。しかし彼らの誇りも「信仰の律法」によっていまや取り除かれました。「信仰の律法」とは信仰によって人が義とされるという原則のことで、具体的には21-26節に書かれてあった内容のことです。




3:28 わたしたちは,人は律法の業とは別に,信仰によって義と宣せられる,とみなすからです。

信仰によって義とされるという原則を認めることは、人間に誇るべき功績や価値が一切ないことを認めることにほかなりません。(エフェソス2:8-9) 信仰によって義とされる以上わたしたちは自分の持つすべての誇りを捨て去り、主を信じる心だけを持って神の前に出るべきではないでしょうか。




3:29 それとも,この方はユダヤ人だけの神なのですか。

27-28節にはユダヤ人が誇るべきでない理由として「人は信仰によって義と宣せられる」という点が挙げられていましたが、パウロは「それとも」と続け、さらに別の理由を挙げます。




3:29 諸国の人たちの神なのでもありませんか。

その理由とは「ユダヤ人の神は同時に諸国民の神でもあるのではないか」ということです。




3:29 そうです,諸国の人たちの神でもあります。

確かに神は「諸国の人たちの神」でもあります。ユダヤ人という民族だけの神ではありません。




3:30 もし神がほんとうにただひとりならばです。

ユダヤ人は神を唯一の存在として信じていましたが、(詩編96:5、詩編97:7-9、エレミヤ10:6-7) もし神が唯一であるなら、その方はすべての人の神であるはずです。




3:30 神は,割礼を受けた人々を信仰の結果義と宣し,無割礼の人々をもその信仰によって義と宣するのです。

全人類の神である方はすべての人を平等に扱われます。もし神が万人を平等に扱う方であれば、その方は人を義とする際に割礼の有無を判断の根拠にしたりはされません。割礼を誇るユダヤ人の優越感は神にとってまったく無意味です。神はあらゆる人をただ信仰ゆえに義と認めてくださいます。




3:31 では,わたしたちは自分の信仰によって律法を廃棄するのですか。

人が義とされるうえでは律法も割礼も不要です。この考え方は神がユダヤ人にお与えになった律法に対抗するものでしょうか。




3:31 断じてそのようなことはないように! それどころか,わたしたちは律法を確立するのです。

そうではありません。良いたよりの目的は律法に対抗することではなく、むしろ律法が目指していたことを本当の意味で実現することです。イエスも律法を廃止するためではなく成就するために来られましたが、(マタイ5:17) それと同様に使徒たちも律法の目的とするところを確立し、宣教によって人が神の義に導かれるようにしていたのです。