神の義の表れ②(ローマ3:25-26)
3:25 神はこの方を,その血に対する信仰によるなだめのための捧げ物として立てられました。
神は無償でわたしたちを義としてくださったわけですが、そうなると神が公正に反する処置を行ったことにはならないでしょうか。
罪人が法廷で何の理由もなく無罪判決を受けるとしたらどうでしょうか。罪人は喜ぶかもしれませんが、同時に裁判官は不公正な判決を下したとして信用を失うことになります。もし神が一時的な感情で人類に無罪を宣告されたとすれば、同じように信用が失われる結果となったことでしょう。
罪人が法廷で何の理由もなく無罪判決を受けるとしたらどうでしょうか。罪人は喜ぶかもしれませんが、同時に裁判官は不公正な判決を下したとして信用を失うことになります。もし神が一時的な感情で人類に無罪を宣告されたとすれば、同じように信用が失われる結果となったことでしょう。
とはいえ安心すべきことに神の場合そのようなことは断じてありません。神はご自身の公正を貫きつつ人類を救うための方法を綿密に計画したうえでわたしたちを義と宣言されたのであって、決して感情に流されて何の理由もなく行動されたわけではありません。
では神はどのような計画に基づいてわたしたちを義と宣言してくださったのでしょうか。その答えとなる三つの点が25-26節に要約されています。すなわち人類を義とする方法、その方法を選んだ理由、そして人類を義とする時期、この三点です。
では神はどのような計画に基づいてわたしたちを義と宣言してくださったのでしょうか。その答えとなる三つの点が25-26節に要約されています。すなわち人類を義とする方法、その方法を選んだ理由、そして人類を義とする時期、この三点です。
まず人類を義とする方法については、「この方をなだめのための捧げ物として立てられた」とあります。
神は人を義とするにあたり人間の側に代償を求めない代わりに別のところで代償を用意されたのです。その代償がキリスト・イエスの血でした。キリストはわたしたちの代わりに「なだめのための捧げ物」、すなわち律法に規定された動物の犠牲のような罪を埋め合わせるための代償となられました。信仰をもってこれを受ける者が恩恵にあずかれるようにしてくださったのです。
「なだめのための捧げ物」と訳されたギリシャ語hilastérionの本来の意味は「なだめの」です。だれをなだめるかといえば神です。罪に対する神の憤りは、その罪が裁かれるまで永遠にやむことがありません。キリストの死はこの神の憤りをなだめるために必要でした。
神は愛の原則だけでなく神聖さの原則も貫徹する方ですから、罪に対して怒りを表明するのは聖なる神にとって至極正当な行為です。これに対して「それは神の愛と矛盾するのではないか」と考えるのは神の神聖さに関する誤解です。神の神聖さを正しく理解できれば、キリストの死がわたしたちにとっては罪の贖いであり、神にとっては聖なる怒りをなだめる犠牲であり、いずれにしても必要不可欠なものであったことを認識できるでしょう。
3:25 これはご自身の義を示すためでした。
第二に上記の方法を選んだ理由については、「ご自身の義を示すため」とあります。
もし神が愛のない方であったなら、そもそもすべての人間は罪を見過ごされる間もなく即座に滅ぼされていたでしょうし、そのようにして神は罪人に公正な裁きを下すという義の原則を支障なく貫き通して事態を収めておられたことでしょう。にもかかわらず神が世界を滅ぼさなかったのは、愛ゆえに人類を一人残らず救いたいと思われたからでした。(ペテロ第二3:9)
さて、この場合に浮上する最大の問題は神がいかにしてご自身の「義」と「愛」を両立させるかです。神にとって罪を見過ごすことはご自分の義を一時的に停止させることにほかなりませんが、だからといってその義を厳正に行使すれば、当然人類に裁きを下さなければならないことになるのです。
ここで愛の神は偉大な知恵をもってキリストの贖いという救いの道を開かれました。神はご自身の正義を最終的に実証するためにイエスを全人類の身代わりとし、このイエスによって人類の罪が贖われるようにしてくださったのです。こうして神はご自身の義を損なうことなく同時に不義な者を義と認めるという偉業を実現されたのであり、一方でイエスを信じる者は代価を払わなくても信仰ゆえに無罪とされることとなりました。
3:25 神は過去に,すなわちご自分が堪忍を働かせていた間になされた罪を許しておられたからです。
人を義とする神の恩恵はキリストが遣わされるより前の時代を生きていた人々にも及びます。その時代すでに神はキリストの贖いを予定しておられました。そのため贖いの時まで「堪忍を働かせて」人々の罪の裁きを保留にし、時が来るとその人々の罪もキリストの贖いによって許すことにされたのです。
確かにヘブライ語聖書時代にも神はご自分の僕たちの個人的な罪を許してこられました。しかしそれらの罪の許しは、イエス・キリストの死によって完全な許しが正当に与えられる時まで罪を一時的に見過ごすという意味だったのであり、この点においては、現代のクリスチャンがキリストへの信仰によってただちに罪が許されるのと意味が異なっています。
3:26 こうして今の時期にご自身の義を示し,イエスに信仰を持つ人を義と宣する際にもご自分が義にかなうようにされました。
第三に人類を義とする時期については、「今の時期に」とあります。キリストが苦しみの杭で死なれたその時に人を義とする神の業が成し遂げられたということです。
律法は神を義なる方とする一方で人間を罪人としました。しかしキリストの良いたよりは神を義なる方とするのと同時に罪人である人間も義なる者とするのです。ここに神の義、神の愛、そして計りがたい神の知恵の深さがあります。
3:26 こうして今の時期にご自身の義を示し,イエスに信仰を持つ人を義と宣する際にもご自分が義にかなうようにされました。
律法は神を義なる方とする一方で人間を罪人としました。しかしキリストの良いたよりは神を義なる方とするのと同時に罪人である人間も義なる者とするのです。ここに神の義、神の愛、そして計りがたい神の知恵の深さがあります。
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