神の義の表れ①(ローマ3:21-24)





罪の現実を突きつけられて絶望の淵に投げ落とされたかのような全人類ですが、このような人類に救済の手を差し伸べる神の大いなる恵みがここに明らかにされます。

321節から11章まではローマ書において最も重要な救いに関する教理が展開されている箇所となっています。この箇所を大きく二分すると、前半の321節から8章までが個人の救いを、後半の9章から11章までが世界の救いをテーマとして扱っている部分となります。

さらに個人の救いをテーマとした321節から8章までを細かく分けると、321節から5章までが罪の許しを受けて義とされることを、6章から817節までが神の奴隷となって命と霊を受けることを、818-39節が救いの完成によって栄光にあずかる者とされることを論じた部分となっています。




3:21 しかし今や,律法からは離れて神の義が明らかにされました。

全人類が罪の下にあること、そして律法が人を義とする点で何の役にも立たないことはすでに明らかです。

しかし神は哀れむべきこの世界を見捨てず、ここに神の義を天から啓示してくださいました。「律法からは離れて」とあるとおり神は律法とまったく無関係の手立て、具体的には22-24節で明示されている手立てによって人を義とする道を開いてくださったのです。

パウロは完了形の動詞を使って神の義が「明らかにされた」と言っていますが、これは人を義とする神の計画がすでに完成しており、その効果が揺るぎないものとなっていることを示唆するものと理解できます。




3:21 律法と預言者たちによって証しされているとおりです。

神の義に関する良いたよりは使徒たち独自のひらめきによって作り出されたものではありません。なぜならそれは前もって「律法と預言者たちによって証しされている」ものだからです。律法に規定されたことも預言者たちが民に語ったことも、実にヘブライ語聖書全体が神の義の表れであるイエス・キリストとその良いたよりを指し示すものだったのです。(ルカ24:25-27、ヨハネ5:39-47) 律法は人が自力で義を勝ち取るための手段となりえませんでしたが、その代わり神が与えてくださる義を予示する働きをしました。




3:22 そうです,イエス・キリストに対する信仰による神の義であり,信仰を持つすべての者のためのものです。

神が罪深い人類を「イエス・キリストに対する信仰によって」義と認めてくださること。これが神の義です。

律法の業によって義を手に入れようとする努力は神にとってむなしいものです。それによって人が義に達することはできないからです。それでも人がイエス・キリストを信じるなら、神はその信仰を良しとしてその者を義なる者と認めてくださいます。いわば神の義をその者に着せてくださるのです。




3:22 そうです,イエス・キリストに対する信仰による神の義であり,信仰を持つすべての者のためのものです。

しかもその義を受けるために必要な身分などはありません。イエス・キリストを信じる限りユダヤ人にも諸国民にも神の義が及びます。神の義は「信仰を持つすべての者のためのもの」だからです。




3:22 差別はないからです。

罪人という立場おいてすべての人間が等しいのと同じく、義が与えられることにおいてもすべての人間が神から平等に扱われます。そこに人種的、階級的、宗派的、道徳的な差別は一切ありません。




3:23-24 というのは,すべての者は罪をおかしたので神の栄光に達しないからであり,彼らがキリスト・イエスの払った贖いによる釈放を通し,神の過分のご親切によって義と宣せられるのは,無償の賜物としてなのです。

神の義が人類に等しく与えられるのは、そもそも人類が等しく神の義から離れ落ちているからです。そして神の義から離れ落ちた人類は神の栄光からも離れ落ちてしまいました。

神ご自身は無限の栄光を有しており、ご自分を信じる者にもその栄光を与えてくださいますが、人間はアダムから始まった罪のゆえに各々罪を犯しており、そのため神から栄光を受けるにふさわしくない状態にあります。この状態は全人類共通のものです。もし罪を犯していなかったなら、人間は命を与える神の栄光に到達することも不可能ではなかったということなのかもしれません。




3:23-24 というのは,すべての者は罪をおかしたので神の栄光に達しないからであり,彼らがキリスト・イエスの払った贖いによる釈放を通し,神の過分のご親切によって義と宣せられるのは,無償の賜物としてなのです。

神の義と栄光から大きくかけ離れてしまったわたしたちが救われるには、神の意志と力で義と宣言されるよりほかに道がありません。ここで神が開いてくださった道こそがキリスト・イエスの贖いです。

罪は人類を隷属させる残酷な王として神と人間の間に立ちはだかり、人間が神の義を受けられないようにしてきましたが、キリストはあたかも奴隷を解放するようにしてわたしたちを罪の奴隷状態から解放し、神とキリストのものとなるよう買い戻してくださいました。

この人類の解放が「贖い」という言葉で言い表されているのは、これを成し遂げるためにキリストがご自身の命という最大の代償を払ってくださったからです。奴隷を買い戻すには相当の代価が求められますが、それと同様にキリストも数知れない罪の奴隷たちを買い戻すために無限の価値を持つご自身の命と血をささげてくださったわけです。

この贖いによってキリストは人類に隷従を強いていた罪という王を撃破し、自ら神と人間の間に立ち、人間が神から義とされる道を確立してくださったのであり、そのおかげでわたしたちは神から罪人ではなく義人として認められることになったのです。




ローマ書ですでに何度か出てきているギリシャ語dikaioóですが、これは「義と宣する」と訳されているとおり「正しいと宣言する」行為を意味します。ちょうど法廷で有罪か無罪かの判決が下されようとしている場面で裁判官が「無罪だ」と宣言する、そういったイメージです。

しかもそれはただ表面的に無罪を宣言するようなものではなく、本質的に無罪となったと判断できる確たる根拠、すなわちキリストが身代わりとなって贖罪を果たしてくださったという事実に基づいて当人を罪からすっかり清められた者として認め、宣言し、取り扱うということを意味しています。dikaioóはローマ書のキーワードですので、どんな意味合いを持つ語かを覚えておくとよいでしょう。




3:23-24 というのは,すべての者は罪をおかしたので神の栄光に達しないからであり,彼らがキリスト・イエスの払った贖いによる釈放を通し,神の過分のご親切によって義と宣せられるのは,無償の賜物としてなのです。

贖いは「無償の賜物」です。

わたしたち自身には救われるべき権利や価値が何一つないのですが、それでも神はわたしたちの側に一切代価や功績を要求することなくキリストによる救いを与えてくださったのです。これを過分の親切と呼ばずに何と呼べるでしょうか。