内面のユダヤ人②(ローマ2:25-29)
2:25 実際のところ,割礼は,あなたが律法を実践してはじめて益があるのです。
ユダヤ人は割礼さえ受けていれば神の民として是認されると信じていました。割礼そのものが自分たちの特権の保証と考えていたのです。しかし彼らは到底神に認めていただけるような状態ではありませんでした。彼らはどうすべきだったのでしょうか。最低でも律法を実践し、その規定に違反しない生活を送っているべきでした。
2:25 しかし,もしあなたが律法の違犯者であれば,あなたの割礼は無割礼になっています。
もし律法の要求を実践しないならユダヤ人といえど神から見て違反者です。そして違反者である以上割礼を受けていることは無意味となります。ユダヤ人は諸国民を無割礼者と呼んで蔑視していましたが、ユダヤ人であれ律法を守らないなら無割礼者以外の何でもないのです。
2:26 したがって,もし無割礼の人が律法の義の要求を守るなら,その人の無割礼は割礼とみなされるのではありませんか。
割礼者でも律法を破るなら神に裁かれるのと反対に、無割礼者でも律法を守るなら神から誉れを受けます。無割礼の諸国民であれ律法の要求を満たすことは可能ですし、そうなると割礼を受けたユダヤ人が本来得ていたのと同等の立場に立つのです。
2:27 そして,本来無割礼であるその人は,律法を実行することによって,その書かれた法典と割礼とがありながら律法の違犯者となっているあなたを裁くことになります。
立場が逆転することにより今度は律法を守る諸国民が律法を守らないユダヤ人を非難することにさえなります。真に悔い改めなければ、ユダヤ人は裁きの日に本当に諸国民から裁かれ、(マタイ3:7-10、マタイ12:38-42) 諸国民のほうが天の王国に招かれるのを目の当たりにせざるをえなくなります。(マタイ8:11-12)
2:28 外面のユダヤ人がユダヤ人ではなく,また,外面の肉の上での割礼が割礼でもないのです。
結局のところ神がご覧になるのは人の外面ではなく心です。(サムエル第一16:7) ユダヤ人という血統によって人が神に認められるのではありません。見かけだけの割礼によって人が神に認められるのでもありません。実質が伴っていなければ、その人は神から見て「外面のユダヤ人」でしかありません。
2:29 内面のユダヤ人がユダヤ人なのであって,その人の割礼は霊による心の割礼で,書かれた法典によるものではありません。
むしろ心に律法を持って神の要求を満たす者、また心に割礼を受けて自分の汚れを取り去る者が本物のユダヤ人として神に認められるのです。これこそ「内面のユダヤ人」です。
2:29 その人に対する称賛は,人間からではなく,神から来ます。
内面のユダヤ人は神から真のユダヤ人と認められ、称賛されます。
いみじくもユダヤ人という名称の語源である「ユダ」というヘブライ語には「称賛」という意味があります。パウロは「称賛」という語を選ぶことで、「外面のユダヤ人はユダの名をいただく者として人から認められるにすぎないが、内面のユダヤ人は神からユダ(称賛)の名をいただくのである」という趣意をうまく伝えています。
神の目には人の身分など本当に関係ありません。神はただ人の心をご覧になって裁きを下されます。このことはユダヤ人のみならず現代のクリスチャンもよく考えなければならない点です。「バプテスマを受けて何年たったか」とか「どの教派や組織に属しているか」などの問題は裁きの日に何も意味を持ちません。
人は信仰面で熱心になると、つい目に見える基準で自分や他人の信仰の良し悪しを評価してしまいがちになります。しかし神の基準は人間のそれとはまったく違います。自分の信仰を誇りそうになったときは神の公平さをもう一度熟考するようにしましょう。
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