神の公正な裁き①(ローマ2:6-11)





ユダヤ人の罪の根本原因は自分が諸国民よりも優れていると思い込んでいるところにありました。パウロはその誤った理解を正すために神の裁きの公正を説きます。これが6-11節です。さらに律法を持っているかどうかが裁きを左右するわけでもないことが12-16節で論じられています。




2:6 そして,神は各々にその業に応じて報います。

2節には「神の裁きは真実」という根本原則が示されていました。人間は自分の一切の行為について必ず神から報いを受けます。良い報いを受けるか悪い報いを受けるかはすべてその人の業によって決まります。(マタイ16:27




なおこの原則はヘブライ語聖書でも繰り返し述べられています。(ヨブ34:10-12、詩編62:12、箴言24:12




2:7 良い業における忍耐によって栄光と誉れと不朽性とを求めている者には永遠の命です。

良い行いには良い報いが返ってきます。

多くの誘惑と試練の中にあって忍耐強く善を行い続けるのは簡単なことではありませんが、このような良い行いは天の王国での祝福につながります。王国において与えられる神からの祝福こそが真に栄光ある不滅のものです。これを求めて良い業を行った者は永遠の命を受けます。




2:8-9 一方,争いを好み,真理に従わないで不義に従う者に対しては,憤りと怒り,患難と苦難があります。

悪い行いには悪い報いが返ってきます。

「争いを好むこと」と訳されているのは「党派心」を意味するギリシャ語eritheiaです。言い換えれば利己心に駆られて反抗的な態度に出ることです。争いを好む者はそのよこしまな動機ゆえに「真理に従わない」行動に出ます。そして神の激情と災難が報いとして身に降りかかります。




2:9 それは,有害な事柄を行なうすべての人の魂に,ユダヤ人を初めとしてギリシャ人にも臨みます。

神の裁きの原則はすべての人に共通して適用されます。悪いことを行うなら、ユダヤ人も非ユダヤ人も悪行の報いから逃れることはできません。




2:10 しかし,栄光と誉れと平和が,良い事柄を行なうすべての人に,ユダヤ人を初めとしてギリシャ人にもあるのです。

しかしその反対に良いことを行うなら、ユダヤ人も非ユダヤ人も善行の報いを受けそびれることはありません。




2:11 神に不公平はないからです。

神には偏見がありません。ユダヤ人だとか非ユダヤ人だとかそういう理由で人を判断せず、もっぱら当人の動機や行動に応じて報いをお与えになるのです。神がえこひいきをされないという事実もヘブライ語聖書で繰り返し教えられている真理です。(申命記10:17-18、ヨブ34:19、歴代第二19:7) ですからユダヤ人はこの真理に反対できません。

人の上辺は結局のところ裁きの日に何も意味を持ちません。神は人の外面にあるものをすべて取り除き、心の奥深くにあるものをさらし、それに基づいて各自をお裁きになります。

この点、クリスチャンはユダヤ人に与えられている警告を他人事のように考えるべきではありません。名目が救いを約束するわけでないことはユダヤ人にしてもクリスチャンにしても同じだからです。わたしたちも、たとえクリスチャンであってもその身分が良い報いを受ける保証となるわけではないという教訓を得るべきではないでしょうか。